ビジネスパーソンはもちろん、学生や研究者からも好評を博し、9.5万部を突破した入山章栄氏の著書『世界標準の経営理論』。入山氏がこの執筆過程で感じたのが、世界の経営学とはまた異なる、日本の経営学独自の豊かさやおもしろさであった。本連載では、入山氏が日本で活躍する経営学者と対談し、それぞれの研究やアイデア、視点を交換することで生まれる化学反応を楽しむ。
連載第3回では、日本の経営学会の「重鎮」の一人である淺羽茂氏に登場いただく。淺羽氏はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)と東京大学で博士号を取得し、海外の主要経営学術誌に論文を掲載する国際的な業績を持ちながら、日本でも最大の経営学会の一つである「組織学会」の会長を務めた経歴を持つ。世界と日本の経営学をよく知る国内屈指の経営学者の一人である。前編では、ファミリービジネスやイノベーションなど、淺羽氏の過去から最新の研究まで、入山氏が伺った。後編では、淺羽氏の学者としてのユニークなキャリア、そして若手研究者に向けたメッセージを伺う(構成:加藤年男)。

ダイナミックなキャリアの変遷

入山:前編では、淺羽先生がAMR(アカデミー・オブ・マネジメント・レビュー)に発表した論文から、最新のイノベーションに関する研究まで伺ってきました。後編では、淺羽先生の学者としてのキャリアについて伺いたいです。

 淺羽先生は学部では応用ミクロ経済学のゼミで学ばれています。淺羽先生はご自身のことを、経営学者、経済学者のどちらと思われているのか。前編で淺羽先生のUCLAに留学されていたお話が少し出てきていましたが、そもそも、なぜUCLAに留学しようと思われたのか。そのあたりから伺ってもよいでしょうか。

淺羽 茂(あさば・しげる)
早稲田大学大学院 経営管理研究科(ビジネススクール)教授
1985年東京大学経済学部卒業。94年東京大学より、博士(経済学)取得。99年UCLAより、Ph. D(Management)取得。学習院大学経済学部教授を経て2013年より現職。Academy of Management Review, Global Strategy Journal, Family Business Reviewなど国際的な主要経営学術誌に論文を発表し、特許制度、製品開発、無形資産、模倣など様々な英語論文が海外で出版された多くの本に収められている。 主な著書に、『競争と協力の戦略』(有斐閣)、『日本企業の競争原理』(東洋経済新報社)、『経営戦略の経済学』(日本評論社)、『ビジネスシステムレボリューション』(NTT出版)、『企業戦略を考える』(日本経済新聞出版社)、『企業の経済学』(日本経済新聞出版社)、『経営戦略をつかむ』(有斐閣)がある。

淺羽:東大の院生だった頃、東大、一橋大、神戸大などの経営学グループで、三菱カンファレンスという国際会議を主催していました。そこにマイケル・ポーターやキム・クラーク、デイヴィッド・クレプス、マイケル・スペンス、ヘンリー・ミンツバーグ、タルン・カナ、リタ・マグレイスなど、のちに世界的にメジャーになる研究者がたくさん来ていたんです。

入山:すごいメンバーですね……。スペンスなんてノーベル賞受賞者ですよね。

淺羽:そうしたすごい研究者を間近に見て、憧れから留学したいと思うようになったんです。ただ、留学すると就職できないぞと周囲から脅され、いったんあきらめて、まずは就職を考えました(笑)。

 働きながらサバティカル(研究休暇)を使ってPh.D.を取ろうと思い、まず就職先はサバティカルが取れるところを探したんです。結果、学習院大学に就職し、3年後にサバティカルが取れました。

 実は日本の大学が社会科学の院生に対して課程博士を出すようになったのは、私の世代からなんです。大学院を出てから3年間の猶予期間に論文を出すと博士を取れる制度ができたので、それを利用して学習院時代に東大で博士を取りました。その後アメリカに渡り、UCLAのアンダーソン・スクール・オブ・マネジメントの学生になりました。

入山:サバティカルの期間は、学習院から給料が出るわけですよね。

淺羽:2年間は出ます。その2年でコースワーク(研究者としての素養をつけるための科目の履修)を終え、あとは家族をアメリカに置いたまま、私が毎月2回ぐらい日本とLAを往復していました。それで貯金が全部なくなりました(笑)。

 当時、Ph.D.を取るにはどんなに早くても4年、UCLAでは普通5、6年はかかると言われていました。ちょうど電子メールが出始めたこともあって、日本にいながらでも指導教授とコミュニケーションが取れて博士論文を書くことができたので、結局コースワークをしていた2年間を含めて5年間で博士号を取ることができました。

入山:コースワークと合わせて5年間なら、アメリカのPh.D.としては順調ですね。学習院で働きながら東大の博士号を取られて、サバティカルでUCLAに入り、2年間でコースワークを終わらせ、学習院に戻って働きながら3年間でPh.D.の論文を書いたわけですね。そんな豪快なPh.D.の取り方のストーリーを聞いたのは、初めてです(笑)。

 僕も経験しましたが、アメリカのコースワークは死ぬほどきついですよね。普通はサバティカルというと、ゆっくり研究するというイメージですけど、淺羽先生はその2年間、UCLAでPh.D.を取るために、地獄のコースワークを受けていたわけですね(笑)。

淺羽:35歳頃でした。UCLAのコースワークは他の大学ほどは厳しくないとは思いますけど、やはり読まされる論文の量は半端じゃないし、眠いし、この年になって、なぜこんなに研究をするのではなく、勉強しなきゃいけないんだろうと思いましたね(笑)。

入山:UCLAのアンダーソン・スクールはやたらと大物教授がいる反面、それぞれの教授の個性が立ち過ぎて特殊なビジネススクールという印象が私には強くあります。実際、入られていかがでしたか。

淺羽:特殊ですし、政治的な駆け引きも多かったですね。

 私は経営学者なのか、経済学者なのかという入山先生の質問への答えですが、私がずっと言っているのは、経営学はディシプリン(専門分野)ではないということです。ビジネススクールで経営学を教えている人も、ディシプリンは経済学だったり、社会学だったり、心理学だったりするわけです。その意味で言えば、私は経済学をディシプリンとする研究者、つまり経済学者になります。

 UCLAのPh.D.のプログラムでも、経済学の院生と一緒に経済学の授業を受けました。それとともに、ファカルティ(教員)には社会学者もたくさんいましたから、社会学の授業も受けていました。

入山:淺羽先生はもともと東大で経済学を勉強されていたので、そういうエッジのきいたUCLAとは相性が良かったのでは?

淺羽:相性は良かったです。1年目のコースワークの時から、経済学研究科でIO(産業組織論)の授業も取っていました。まだハロルド・デムゼッツが教えていました。

 私がアンダーソン・スクールの中でいたのは、「戦略と組織」というエリア(専門分野)のグループに属していました。そこは3人のベテランの先生が実質的に運営していました。リチャード・ルメルトやビル・オオウチといった人たちです。当初はルメルトに指導教授になってもらおうと思っていたのですが、彼がたまたまサバティカルで不在だったので、当時中堅だったマービン・リーバーマンに指導教授になってもらいました。AMRの論文の共同執筆者でもあるマービンはとてもいい人で、本当にラッキーでした。

入山:私もPh.D.をとったピッツバーグ大学では、指導教官にすごく恵まれました。指導教官に恵まれることは大事ですよね。

淺羽:学者の世界は人間関係が大きいですからね。私はアメリカで働く気はありませんでしたが、就職したい人は、影響力のある先生に推薦状を書いてもらわなきゃいけない。ただし、相性を二の次にして、影響力(名前)だけで先生を選んでしまうと、あとで結構苦労するようでした。