『ハーバード・ビジネス・レビュー』を支える豪華執筆陣の中で、特に注目すべき著者を毎月一人ずつ、東京都立大学名誉教授である森本博行氏と編集部が厳選して、ご紹介します。彼らはいかにして現在の思考にたどり着いたのか。それを体系的に学ぶ機会としてご活用ください。2020年8月の注目著者は、INSEAD准教授のネイサン・ファー氏です。

コンサルタント、起業家を経て
研究者としての道を歩み始める

 ネイサン・ファー(Nathan R. Furr)は1977年生まれ、現在43歳。INSEADの准教授を務め、イノベーションと技術戦略を担当している。主な研究対象は、企業(特にベンチャー企業)を技術革新にどのように適応させ、新たな市場を形成するのか、また、その成功要因は何かである。

 ネイサンは、ブリガム・ヤング大学で英語学を専攻し、1998年に学士号を、2000年に修士号を修得した。修了後、世界的な戦略コンサルティング・ファームのモニター・グループ(現モニターデロイト)にコンサルタントとして就職し、ヘルスケア業界の市場分析や技術戦略を主に担当している。

 同社を退職した2002年、ネイサンはBYUのマリオット・スクール・オブ・マネジメント(以後BYU)に進学した。BYUのMBAプログラムでは特に技術戦略論に関心を持ち、講座を担当していたジェフリー・ダイアーから研究指導を受けた。ダイアーとの師弟関係は、BYUを離れてINSEADに在籍する現在も続いている

 2004年にMBAを取得すると同時に、雑誌等で革新的な女性によるライフスタイル・ブランドを紹介するプロンク(Pronk)を友人と共同で起業したが、同年秋にスタンフォード大学工科大学院(School of Engineering)の「スタンフォード・テクノロジー・ベンチャー・プログラム(以後スタンフォード)」博士課程に進学した。スタンフォードではアントレプレナーシップ論と組織論を専攻し、著名な研究者であるキャサリン・アイゼンハート(Kathleen M. Eisenhardt)から研究指導を受けた。

 ネイサンがスタンフォードで実施した研究では、技術革新に対して組織的な対応を行う企業と、それを行わない企業の認知の差異に焦点を当て、「認知の柔軟性」という視点から、認知を決定する組織の多様性、新規性指向、フレーミング(認知バイアス)の3要素を検討した。博士論文のタイトルは、“Cognitive Flexibility: The Adaptive Reality of Concrete Organization Change.(認知の柔軟性:具体的な組織変革における適応の現実)”である。

 2009年、ネイサンはスタンフォードから戦略論・アントレプレナーシップ論・組織論のPh.D.を授与され、同年に母校であるBYUの助教授に採用された。BYUでは、学部とビジネススクールで新規にカリキュラム編成された起業家プログラムにおいて、主にイノベーションとニューベンチャーの起業に関する講義を担当した。

 2010年には、アイゼンハートの勧めでフランスのエセック・ビジネススクール(ESSEC)の非常勤講師として教鞭を執り、2014年からはINSEADでも教え始めた。2015年にBYUとの兼務を経てINSEADの専任助教授に就任すると、2019年には同校の終身在職権を持つ准教授となり、今日に至る。

イノベーションを
体系的なプロセスとして理解する

 ネイサンが『ハーバード・ビジネス・レビュー』(Harvard Business Review、以下HBR)誌に寄稿した最初の論文は、BYUでの恩師であるダイアーとの共著論文、“Leading Your Team into the Unknown.” with Jeffrey H. Dyer, HBR, December 2014.(邦訳「プロセスを変えればイノベーションは生まれる」DHBR2015年6月号)である。

 成功するイノベーターに共通していることは、個々の卓越した発明ではなく、イノベーション・プロセスを革新したことにある。この論文では、成果を上げたイノベーターが、どのようなプロセスを用いて、アイデアを検証し、市場に導入しているのかという問題意識に基づき、イノベーションを実現するマネジメントやプロセスのあり方について検討した。

 たとえばIDEOの場合、顧客との間に共感を築き、さまざまなソースから引き出した新しいアイデアを組み合わせる「デザイン思考」と呼ばれるアプローチを導入しているように、多くの一流のイノベーターには、より確実にイノベーションを構想し、開発し、実験し、市場に導入するために活用する包括的なイノベーション・プロセスがある。

 イノベーションとは、本質的に発見のプロセスである。そこでリーダーが果たすべき役割は、イノベーションに対する意思決定者としてではなく、イノベーション・プロセスを実行できる「心理的安全性」が担保された空間をつくり出すために、未知のことに対する不確実性を軽減する「洞察する価値」、遂行、変更、終了を「選択できる価値」、実験から得られる「戦略上の価値」という3つの価値を生み出すことにあると、ネイサンらは主張した。

 イノベーション・プロセスに関する近年の動きに目を向けると、業際を超えて多数の企業が自発的に参加する「ビジネス・エコシステム」と呼ばれるプロセスが注目を浴びている。

 ネイサンは、“Multi-Party Innovation: How Big Firms are Collaborating to Innovate at their Intersections,” with Kate O’Keeffe and Jeffrey H. Dyer, HBR, November 2015.(邦訳「エコシステムイノベーション:大企業が連携する新たな仕組み」DHBR2017年6月号)を執筆した。

 この論文では、業界を超えて多数のプレイヤーを集めて機動的にアイデアを事業化するエコシステム・イノベーションの手法を取り入れた、シスコの「ハイパーイノベーション・リビング・ラボ(CHILL)」における協働活動を詳述し、企業がエコシテム・イノベーションの能力を高める必要性を論じている。

 このテーマをまとめた書籍として、ネイサンとダイアーは、The Innovator’s Method,  2014.(邦訳『成功するイノベーションは、何が違うのか?』翔泳社、2015年)を上梓している。同書では、既存企業の経営陣が不確実性の高い野心的なアイデアを検証し、イノベーションの実現に向けてマネジメントするような、新たなイノベーションの手法に取り組む必要性を提唱した。

 また昨年(2019年)、同様の問題意識からイノベーションの手法を重要な経営資産として捉えた、Innovation Capital, 2019.(未訳)も出版している。

ビジネスモデルをたえず見直し、転換する

 ネイサンは “The Prius Approach: How Hybrid Technologies Help Companies Survive Disruption and Shape the Future,” with Daniel Snow, HBR, November 2015.(邦訳「プリウス式ハイブリッド戦略」DHBR2017年5月号)で、ハイブリッド戦略を紹介している。

 ハイブリッドとは、次世代のイノベーションを構成する可能性のある、破壊的技術と既存技術を掛け合わせた技術やビジネスモデルを意味する。論文タイトルにもあるように、自動車でいえば、従来の内燃機関エンジンに電動技術を取り入れた、トヨタ自動車のプリウスを例に挙げることができる。またPCのストレージの場合、既存技術のハードデスクドライブ(HDD)と、高速で振動にも耐久性のある半導体ドライブ(SSD)を併用するハイブリッド化が進んでいる。

 ハイブリッドを採用する目的は、企業が新しい環境に順応するための時間稼ぎなのか、既存技術を破壊するイノベーションに対するために必至の防御手段なのか。この論文では、破壊的技術の進行度に応じてハイブリッドのタイプを7つに分類して、まず自社にとって適切なハイブリッドのタイプを選択することが成功の要件であることを述べ、4つのステップから成るハイブリッド戦略を提案している。

 自社のビジネスモデルをたえず見直すことは、持続的な成長を実現するために欠かせない。メールアプリのOutlook(アウトルック)やLINE(ライン)は、自社単体でサービスを提供するのではなく、サードパーティを参加させることで多様なサービスを提供する、プラットフォームに転換して成功を収めている。

 ネイサンは、“Products to Platforms: Making the Leap,” with Feng Zhu, HBR, April 2016.(邦訳「プラットフォーム企業へ移行する法」DHBR2016年10月号)の中で、プラットフォームへの転換を指向した20社に関する調査を発表した。この論文では、企業が製品事業からプラットフォーム事業に転換するための3つの方法を提案している。

 1つ目は、有料販売していたアプリを無料配布してクリティカルマスに達するユーザー数を獲得したうえで、プラットフォームに移行する方法である。2つ目は、自社の優れた製品の販売をこれまで通り続けながら、プラットフォームとしてサードパーティとユーザーを繋ぐハイブリッドのビジネスモデルを適用する方法である。3つ目は、ユーザーを巻き込んで製品・サービスを改良できるようにしたり、それまでにない新しいサービスを追加したりすることでプラットフォームの価値を高めて、既存の製品ユーザーをプラットフォームのユーザーに移行させる方法である。

 企業がプラットフォームとして成功するためには、サードパーティに対して、そこに参加する意味がある価値を創造し続ける必要がある。デジタル社会の進化は日進月歩している。たとえ転換に成功したとしても、プラットフォーム・オペレーターは、たえず目を光らせて、新たな挑戦者への対応を図ることが求められると、ネイサンは戒めている。

自社の未来を構想し、
いま取るべき適切な戦略を検討する

 自社が破壊的な技術革新に直面した場合、企業はイノベーションの手法を取り入れて、大胆な発想で組織を変革すべきである。ただし、社内で変革のアイデアを募ると、改良型の「漸進的思考(incremental thinking)」の提案しか出てこないとよく言われる。

 ネイサンは、“When Your Moon Shots Don’t Take Off,” with Jeffrey H. Dyer and Kyle Nel, HBR, January–February 2019.(邦訳「ムーンショットを構想する方法」DHBR2019年8月号)では、誰もが不可能と考えた月面着陸を成功させるような発想、たとえばグーグルのような「10倍思考(10x thinking)」(10%の改善ではなく、10倍の改善につながる発想)がなぜできないのかを問題提起している。

 この論文では、問題の根源は現状に拘泥する「認知バイアス(cognitive biases)」にあり、どの方向を目指すべきかを検討するに際して、「認知の罠(cognitive trap)」にはまっていることだと指摘した。そして、企業がその罠を回避するために4つのイノベーション・アプローチ提案している。

 第1は、あらゆる可能性を夢想させるSF小説を活用して、事業の未来を可視化して、思考することである。第2は、異なる分野を例にするアナロジーを活用して、思考を飛躍させること。第3は、あらゆる現状に疑問を投げかけて、基本に立ち戻って思考する「第一原理(first principles logic)」アプローチである。第4は、ある目的で進化した特徴が別の用途に適用されてさらに進化するという、進化生物学で「外適応(exaptation)」と呼ばれる思考法である。

 そのうえで漸進的思考からに抜け出し、10倍思考によって大胆な夢を描くためには、認知科学を理解して、企業の将来ビジョンの制約要因となっている束縛を断ち切ることにあると、ネイサンは主張する。

 なお、このテーマを論じた書籍として、神経科学の研究者を共著者に加えて、企業変革を実現した事例を紹介する、Leading Transformation, with Kyle Nel and Thomas Z. Romsoy , 2018.(未訳)を上梓している。

 ネイサンはイノベーションと組織変革に関する考察を深め、デジタル・トランスフォーメーション(DX)にも言及している。DXとは、デジタル技術がもたらす事業機会を獲得するために戦略と組織を転換させることである。これはアナログ技術からデジタル技術への転換が叫ばれて以来、継続する経営課題である。

“Digital Doesn’t Have to Be Disruptive,” with Andrew Shipilov, HBR, July–August 2019.(邦訳「デジタル・トランスフォーメーションにまつわる5つの誤解」DHBR2019年12月号)では、多くの経営者が依然としてDXを誤解しており、それがDXを推進する障害となっていると指摘した。

 第1の誤解は、顧客価値の提供という視点で考えたとき、DXが既存顧客に混乱をもたらすということである。第2は、現在対面で行われているビジネスのすべてがオンラインに置き換わるということ。第3は、既存企業が新たなテクノロジーやアイデアを利用してDXを実現するには、スタートアップ企業を買収しなければならないということだ。

 第4は、DXをデジタル技術への技術転換として捉えている点である。DXとは本来、デジタル技術によって、従来縦割りで実施されていた顧客サービスを横の連携に変えて、効率的な顧客サービスに転換することにある。そして第5の誤解は、既存の組織体制を全面的に刷新する必要があるという点だ。

 DXは、企業が提供する顧客価値やビジネスモデルを抜本的に再構築することを意味するものではない。デジタルツールを使ってコア業務を改革することや、デジタルがもたらす新たな事業機会を見出すことにあると、ネイサンは主張する。

 2009年、ネイサンは32歳のときにスタンフォードからPh.D.を授与されたが、博士論文の謝辞の末尾には、妻のスーザンと4人の子どもたちに対する感謝が述べられていた。その深い感謝のニュアンスを伝えるために、以下に原文を転載する。

“Finally, I cannot thank my family enough for their sacrifice and support. Thank you to my parents and siblings. Above all, I have endless gratitude for my wife Susannah and our four children—Elisabeth, George, Josephine and Beatrix—who have sacrificed and supported me. I cannot thank you enough for your wisdom, love, counsel, and companionship. It has been a wonderful time that I will always treasure.”

(最後に、私の家族が払った犠牲とサポートに対しては、どれだけ感謝の言葉を述べても十分ではありません。両親と兄弟に感謝します。何より、妻のスザンナと、エリザベス、ジョージ、ジョセフィン、ベアトリクスの4人の子どもたちが犠牲を払いながら支えてくれたことに心から感謝しています。彼らの知恵、愛情、助言、そして信愛には、御礼を言い尽くせません。私がこれからもずっと大切にしておきたい、素晴らしい時間でした)

 ネイサンは1997年、20歳のときにスーザンと結婚した。それ以降、妻の理解と支援がなければ、学究生活を平穏に送ることはできなかっただろう。ネイサンがINSEADで終身在職権を持つ准教授に昇任した際、妻のスーザンはその喜びを次のように述べている[注]

“Nathan “got tenure” at INSEAD last month. The 15 years journey from day one of PhD in September 2004 to that news on June 20, 2019 calls for some massively earnest celebrations. It’s been fun to dream and scheme about what could really usher in this new phase for our whole family.”

(ネイサンは先月、INSEADで「テニュア(終身在職権)」を得ました。 2004年9月にスタンフォードの博士課程に進学した日から、2019年6月20日の〈准教授に昇任した〉ニュースを聞く日までに過ごした15年間の人生には、熱狂的な祝福が必要です。新たなフェーズを迎えることへの夢とプランを描けるのは、私たち家族全員にとって喜ばしいことです)

 ネイサンは見事に人生のトランスフォーメーションに成功したが、それまでに妻が経験した苦労と献身的なサポートにネイサンが深い感謝を示し、スーザンも夫とともに歩んできた日々を素晴らしい思い出として振り返る。この夫婦が互いに支え合いながら歩んできたことが伺える。