逃避としての物理的空間

 私たちはいま、緊張に包まれている。探検がしたいと強く思っているが、それによってウイルスにさらされることを恐れている。

 イノベーションにとっての最大の可能性は、体験上の逃避にある。こう聞くと多くの人は、VRのヘッドセット、目がくらむようなスクリーン、「もっともっと」という叫び声が飛び交う騒々しい空間を連想する。

 より控えめで、効果的な表現をしているのが、アクネ、セリーヌ、ジェントル・モンスターなどのファッションブランドだ。

 その店舗はブランドのエートスに没入できる、芸術的な逃避の役割を担っている。想像力に富んだインスタレーション、豊かなマテリアル、そして一体感のあるストーリーラインによって、空間自体が主張する。物理的なディテールは、1次元のインスタグラムの背景になるだけでなく、そのブランドから連想されるのと同じ感覚を具体化している。

 異世界のようなストア・インスタレーションで知られるサングラスブランドのジェントル・モンスターは、店舗ごとに設定したテーマを、一風変わった趣向の彫刻で表現している。「収穫」がテーマのロサンゼルスの店舗は、積まれた藁や巧みに配置された枝が、サングラスショップというよりアートギャラリーのような雰囲気を醸し出している。

 一方、アクネの渋谷の店舗は、デザイナーのリビングルームと美術館をたして2で割ったような雰囲気で、贅沢なカーペットやガラスのディスプレイケースが惜しげもなく使われている。

 空間を見直す際には、テクスチャー、光、音、香りが重要なポイントとなる。空間について強く記憶に残るものの多くは視覚的なものではなく、壁の冷たさ、空間に響く音、足元のカーペットの滑らかさなど、体現されたものだ。

 ニューヨーク・ソーホーのホテル、イレブン・ハワード内にあるネイキッド・リテールのコンセプトストアには、同社のパートナーブランドが交代で登場する。

 プロジェクトを担当した私とチームは、小さな黒い箱のような空間に、棚や服のラック、ネットをユーティリティーベルトで天井から吊るすことで、上に向かうような動感を表現した。それによって、狭い空間に開放感が生まれた。また、ソフトな感触の泡、半透明のプラスチック、コンクリートなど、さまざまなテクスチャーが奥行きを与えた。

 体験は、触れないことでも触れることでも可能だ。建築家のユハニ・パルラスマはこう書いている。「視覚は触覚がすでに知っていることを明らかにする(中略)私たちの目は遠くのものの表面、輪郭、縁を描き、無意識の触覚が体験の快適さや不快さを決定する」

 人は不安なとき、自然とつながることのできる落ち着いた環境を望むのはもっともだ。この危機の中で私は、デザインスタジオの「スタジオ・エルスウェア」と一緒に仕事ができることを光栄に思っている。

 彼らは、ニューヨークの病院の第一線で働く医療従事者のために、バイオフィリック・リチャージルームをつくっている。すべて音声で作動し、壁には疲労を回復させるインタラクティブなビジュアルが映され、空間に没入できるオーディオ、リラックスできる香りも堪能できる。

 初期の研究では、こうしたリチャージルームで15分間過ごすとストレスが60%減少することが示されている。営業を再開した店舗にバイオフィリックの要素を取り入れることで、不安を処理し、解放する機会を提供することができる。

 これから数週間に営業を再開する小売店にとっては、ここで紹介したアイデアは実現できそうにないと思うかもしれないが、最も大きな影響を与えることができるものに焦点を当てることが大切だ。再開が間近に迫っている場合は、接触を最小限に抑えつつ、パーソナライゼーションを進めるために、顧客との接点のうちどれを改善できるか考えよう。

 時間が経つにつれ、店舗のデザインをより落ち着きがあって、独創的もしくは個性的なものに変えたくなるかもしれない。時間に余裕がある場合や、実店舗が短期的に見て合理的なのか確信できないなら、店舗やブランドと物理的に接触することで失われるものをデジタルプレゼンスがどう体現できるかに目を向けるといい。

 いずれにしても、デジタル・オーグメンテーション(拡張)があなたのビジネスを支援し、競合他社との差別化を可能にするだろう。あなた一人でやる必要はない。あなたと一緒に未来を描くデザイナー、アーティスト、テクノロジストたちがいる。レジリエントな未来を、ともに築こう。


HBR.org原文:What Will the Retail Experience of the Future Look Like? June 16, 2020.


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