善きことは、カタツムリの速度で進む

 最後にカタツムリの話をしよう。

 テクノロジーの重要性は、ほとんどの経営者が百も承知のはずだ。だからこそ昨今、「デジタルトランスフォーメーション(DX)」を推進しようと各社が躍起になっている。

 DXという言葉は何となく新しいもののように思うかもしれないが、実際には21世紀に入って間もなく提唱され始めたコンセプトである。したがって、世に出てからすでに10年を優に超える歳月が流れている。

 それほど時間が経っているのにDXの先進事例が少ないのは、いくつかのフェーズを経ないと、一足飛びに最先端に躍り出ることができないからだ。最初のフェーズは、企業内に蓄積されているアナログデータをデジタルデータに変換するデジタイゼーション(Digitization)、次はデジタルデータに付加価値を与えるデジタライゼーション(Digitalization)、そしてDXである。

 AIやアナリティクスを導入しようといろいろと準備したが、蓋を開けてみたら肝心のデジタルデータがなかったという冗談のようなことが、実際に起きている。

 そもそもDXとは一過性の戦略や施策ではなく、経営とテクノロジーの結び付きによる恒久的な企業変革を指している。短距離走ではなく、半永久的な歩みなのである。

 「善きことは、カタツムリの速度で進む」というマハトマ・ガンディーの言葉がある。

 DXに取り組む際に、我々はチーターやウサギである必要はない。カタツムリのような速度であっても、着実に前進し続ける者の勝ちだ。カタツムリでさえ、10年もあればアメリカ大陸を横断できるらしい。

 10年なんて長すぎると思うかもしれない。だが、もしあなたが10年前にタイムスリップして、「これから10年かかりますが、DXに取り組みますか」と聞かれたら、どう答えるだろうか。

 10年前にDXの初期フェーズに着手していれば、SMAC(ソーシャル、モバイル、アナリティクス、クラウド)の導入はすでに完了し、2020年の今日は他の企業よりもはるかに先を行っていたかもしれない。現在のコロナ危機でSMAC導入が完了していたら、ビジネス上のメリットは非常に大きかったはずだ。

 多少時間がかかるからといって焦って必要なステップを飛ばしたり、他社のユースケースをそのまま取り入れようと、よく考えずに投資したりしてはいけない。経営者ならば、長期的な視点でビジョンを描くのは当然のことであるが、それは企業戦略だけでなく、戦略に大きな影響を及ぼすテクノロジーについても同じことが言える。

 テクノロジーの進化はどんどん加速しており、さらにはいくつものテクノロジーが複合化するようになっている。自動運転、あるいはモビリティサービスなどはその典型例と言っていいだろう。

 テクノロジーが複合化するほど、直面する課題は非常に複雑になっていく。例えば、レベル5と呼ばれる完全自動運転が実現したとき、走行中の事故の責任を誰が負うのか。ソフトウェアのプログラムミスなのか、ハードウェアの不具合なのか、乗車していた人間に過失はなかったのか。過失割合をどう決めるのか。あるいは、人間にも判断できないようなさらに難解な「モラル」の問題はどうするのか。

 似たような難題が他の分野でも、次々と持ち上がってくるだろう。我々はたとえカタツムリの速度であっても、一つひとつの難題に対して着実に答えを出し、テクノロジーを「善きもの」として活用していかなくてはならない。

 そのために、経営者はテクノロジーのグリップをしっかりと握り、戦略との連携を取り、俯瞰的な視点でテクノロジーの可能性を最大限に引き出していく必要がある。それこそが、これからの経営者、そして企業に求められるケイパビリティなのである。