「忙しさのパラドックス」とは何か

 私たちは、忙しくて焦っているとき(ある調査対象者の表現を借りれば「常に時間に追われている感覚」が続くとき)、視野が狭まる。

 これは、行動科学の世界で「トンネリング」と呼ばれる現象だ。トンネルの中にいるときのように、目の前の課題にしか集中できなくなる。その種の課題には、たいてい大きな価値がない。研究によれば、この状態に陥った人はIQ(知能指数)が13ポイント下落するという。

 いくつもの会議を立て続けにこなし、大量のメールを処理するなど、いわばあちこちで上がる火の手の「消火作業」に追われるうちに、気がつくと夕方の5時や6時になっている。そして、その日にやるはずだった最も重要な課題に着手すらしていないことに愕然とする。そこで、夜遅くまで残業したり、自宅に仕事を持ち帰って夜間や週末に作業したりする羽目になる。こうして、仕事が私生活の時間を奪いはじめる。

「時間的なプレッシャーの下でトンネリングの状態に陥り、目の前の課題の処理に忙殺されると、長期の目標を追求する時間が確保できなくなる。そもそも多忙な状態を生み出した根本要因には、まったく対処できない」と、アイデアズ42でこのプロジェクトの責任者を務めるマシュー・ダーリング副社長は言う。「簡単に完了できるような課題にばかり取り組む傾向が出てくる。それだけの処理能力しかないからだ」

 忙しい人はトンネリングに陥りやすく、トンネリングに陥っている人は忙しくなりやすいと、ダーリングは指摘する。「目先の課題に追われると、戦略的に計画を立てられず、そのせいでますます忙しくなる」

 理屈の上では、たとえば夕方5時までに仕事が終わらなければ、その日は切り上げることもできる。しかし、トンネルから抜け出すのは簡単でない。

 100年前の米国人は余暇活動を通じて社会的地位をアピールしていたが、現代社会では忙しいことがステータスシンボルになっている。忙しすぎて生産的な仕事ができないと嘆く人は多いが、実際には、多忙であることが職場への献身とリーダーとしての資質の証と位置づけられているのだ。

 工場や農場で働く人の生産性は比較的簡単に測れるが、知識労働者の生産性を測るための適切な方法は確立されていない。そのため、主として労働時間と職場への滞在時間を基準に、働き手の努力の度合いが測られてきた。

 やがて、テクノロジーが進歩して職場にいなくても仕事ができる時代になると、職場に長時間滞在することに代わって、常にインターネットにアクセスし、いつでも連絡が取れることに重きが置かれるようになった。「トンネリングは、たまたま生じているわけではない」と、ダーリングは説明する。「今日の一般的なマネジメント手法により、働き手は否応なくこの状態に追いやられている」

 このままでは、ストレスによって誰もが疲弊してしまう。どうすれば、行動科学的対策により、この状況を緩和できるのか。

 カギを握る要素の一つは、どのような人物を理想的な働き手と位置づけるかというメンタルモデルだ。

 これまで理想的と見なされてきたのは、朝早く出勤し、職場のデスクで昼食を済ませ、どんな時間でもメールに返信し、いつも忙しくて、突発的な業務にも真っ先に対応できる人だった。このモデルの下では、ケアの役割を担っている人(主に女性だ)や健全なワーク・ライフ・バランスを実践したい人は、理想的な働き手と見なされない。

 そこでアイデアズ42は、理想的な働き手のイメージを変えるための方策を設計したいと考えている。忙しさのあまりトンネルにはまり込んで視野が狭まり、重要でないことに忙殺され、燃え尽きへの道を歩んでいる人ではなく、質の高い仕事をし、しかも十分に休息を取って健康を維持し、仕事以外でも充実した人生を送っている人が理想と見なされようにしたい。

 アイデアズ42が提案する方法論は、行動科学の考え方に基づいて設計されている。人間の意思決定を左右するのは、個人の性格や意志力ではなく、環境だという認識が土台にある。