自分の得意分野での経験を積み重ねるうちに、新しいことを学ぼうという姿勢は衰えてくる。初心者として学習する体験は困惑や失敗の連続であり、心地悪さを伴うことを知っているからだ。筆者は、そうした感情は「成長痛」であり、それこそが学習なのだと指摘する。


 私がワークショップに参加したとき、リーダーが求めたのは、とても簡単なプロセスだった。彼女の指示に従って小グループに分かれ、順番に「リーダー」となり、他のメンバーはさまざまな役割を果たすというものだ。

 彼女は優れた教師だった。参加者がすべきことを説明し、やり方を示したのちに、参加者に実行を求めた。説明し、例示し、実行する。確かな教授法だ。

 だが私は、「実行」の部分が想像よりもはるかに難しく、気疲れすると感じた。居心地が悪く、自分は不器用だと感じて、落ち着かなかったのだ。私は彼女の指示に従おうとしたが、みんなの前で失敗し、きまりの悪い思いをした。

 ここに、学習の重要なポイントが隠されている。学習という「行為」は知的、行動的、あるいは方法論的だが、一方で学習の「体験」は感情的なものだ。そして、この学習における感情的な体験――初心者として、頻繁に人前でミスを犯すこと――こそ、人が学ぼうとすること自体を避けてしまう理由である。

 私は後日、公共センターで別のワークショップを教えている女性と会った。

「あなたは幸せよ」と、彼女は言った。「私は自己啓発プログラムに30年間参加していないもの」

「どうして?」と、私は尋ねた。

「私はワークショップを主宰しているし」と、彼女は私に言った。「それに、知られているから。他のワークショップには参加できなかったの」

「どうして?」と、私は尋ねた。

「みんな、私をリーダーとして信頼しているから」と彼女は答えた。「だから私を決まった見方で見ているの。私が参加者になっているのを目にしたら、私への信頼を失うと思う」

「手厳しいことは言いたくないけど」と、私は彼女に言った。「正直、あなたが参加者として学んでいる姿を見られないのなら、リーダーとして信頼できないな」