「iPhone を創ったのは、スティーブ・ジョブズ」――誰もがそう思っている。だが、ジョブズの役割は壮大な物語のほんの一部にすぎない。iPhone は驚くほど多くの人々や組織の「発明の集合体」であり、さらに原料調達や生産には、地球上ほぼすべての大陸が関わっている。アップル社の秘密主義のベールに包まれた開発の過程を執念で辿り、iPhone 誕生秘話を描き尽くした力作『THE ONE DEVICE ザ・ワン・デバイス』の読みどころを訳者の倉田幸信氏が紹介する。

ドイツの日常風景を変えたiPhone

 妻がドイツで働くことになったので、私は2008年からドイツに住んで子育てをしている。初代iPhoneが発売された翌年のことだ。

 その頃、長男の通うドイツの幼稚園では、誰も写真を撮らなかった。学芸会や卒業式、小学校の入学式など、日本なら張り切って写真を撮る場面で、保護者は誰一人として写真を撮らないのだ。なので私一人だけが写真を撮ることもできず、悔しい思いをした記憶がある。当時のドイツでは、「写真を撮る」という行為はシロウトが日常的にするものではなく、特別な機会にプロにお金を払って撮ってもらうものだった。

 今、ドイツの日常風景はまったく違う。入学式やクリスマス・コンサートなど、親が招待されるイベントでは、誰もがスマートフォンを高く掲げ、子供の姿を写真やビデオに収めようとする。先日も長女の通う小学校で大型の学芸会が開催されたが、最初に校長先生から「子供の気が散るので、保護者は写真・ビデオを撮らないように。学校側が代表撮影していますから」と釘を刺されたほどだ。道を歩いていても、若者は多くが「歩きスマホ」をしている。電車やバスでも老若男女がスマホをいじっている。

ドイツの小学校の学芸会にて、手に手にスマホを掲げる親たち。もはや世界共通の光景か。

 日常風景をガラリと変えた原因はもちろんiPhoneである。

 本書でも指摘しているが、iPhoneは我々の会話のしかたから娯楽、恋愛、生き方までも変えてしまった。iPhoneは「世界で最も売れたカメラ」であると同時に、「世界で最も売れた地図」であり、「世界で最も売れた音楽プレーヤー」であり、「世界で最も売れたコンピュータ」でもある。

 それほどの商品にもかかわらず、初代iPhoneがいかなる経緯で開発されたのか、網羅的に書かれた本はない。その理由はいくつかあるだろう。アップルの徹底的な秘密主義。複雑に絡まり合った特許や企業秘密。あまりにも膨大な技術の集積──。だが、最大の理由はもしかすると「スティーブ・ジョブズが開発した」と誰もが思い込んでいるからかもしれない。

 本書を読むとそれがまったくの誤解だとよくわかる。

 例えば、iPhone最大の特徴であるタッチ操作の基礎を生み出したウェイン・ウェスターマン。自分が興した会社ごとアップルに買収されたこの青年は、今でもまったくの無名だ。アップルはその存在をひた隠しにしようとしているかのように、メディアのインタビューすら受けさせないという。

 例えば、アップル幹部やジョブズでさえも「UI(ユーザーインターフェイス)の天才」と賞賛するバス・オーディング。世界中で何億人もの人々が毎日目にしているデジタル画面上のエフェクトは、彼なしには存在しなかった。だが、オーディングもほぼ完全に無名である。

 開発スタッフだけではない。iPhoneの原料を掘り出す南米の鉱山、自殺者が続出した中国の組み立て工場、アフリカの廃棄物処分場──そこで働く人々も、世界を変えた"iPhone生態系"の一部である。筆者はアップル内外のこうした現場を訪ね歩き、何が起きているのかを掘り起こす。

「私が目指したのは、本書を読み終えた読者が『iPhone開発秘話』のさわりを知り、そこにジョブズの顔ではなく無数の開発者の集合写真を見ることだ」(本書30ページを参照)