サティの“訳語”となったマインドフルネス

 1950年代、60年代に、私より少し上の世代のアメリカのカウンターカルチャーの人たちが、東洋にスピリチャリティを求めて仏教を学ぶようになった。もちろんそれまでも学問として研究されていたが、実践のリソースとしてアメリカに渡ったのはその頃だ。

 東南アジアで非常に重要な、実践に関わる仏教用語であるサティの訳語として英単語のなかからマインドフルネスが選ばれた。

 マインドフルネスは、さきほどの如実観察につなげてみるとわかりやすい。自分の内や外で起きていることを、曇りなき目で見るということだ。視覚だけではない。仏教は知覚の窓は6つあると教える。目、耳、鼻、舌、身体感覚、心だ。心も感覚器官の1つで、何を感覚するかというと思考やイメージである。

 人間の目は普段は曇っていてはっきり見えていない。それをクリアにするには訓練が必要になる。如実観察の訓練が瞑想であり、それによって解像度の高い「経験の観測装置」を手に入れることがマインドフルネスなのである。

 解像度が低いと「惑業苦」が3つのプロセスでできていることがわからない。たとえば、怒りにしても、そのなかには過去の記憶や現在の間違った知覚、将来の不安などが織り込まれている。知覚の窓が曇ってよく見えないと想像を膨らませることになり、何かを拡大して投影してしまう。本来は怒る必要のないことでも、あいつはこんなつもりで言ったに違いないなどと思い込み、それに対抗する行動を起こしてしまう。

 一方、解像度の高い観測装置で自分の経験を見られるようになると、答えは考えなくても状況が教えてくれるようになる。

 ただ、仏教の立場から言うと、サティはもっと豊かな内容を持っている。本来のサティを知るには瞑想だけでなく他のスキルも必要になる。仏教の世界から一般化されるときに取捨選択が行われ、大事なエッセンスが落とされてしまったようだ。たとえていうと、サティはいろいろな栄養分が入った玄米であり、西洋のマインドフルネスはビタミン剤のようなもので、玄米に含まれていたオーガニックな働きをするいろいろな栄養素が抜け落ちている。私は僧侶として、東洋のサティを通じてマインドフルネスがもっと豊かになるようサポートしたいと思っている。
(了)

2019年2月6日、東京・LIFORK大手町にて開催。

※本講演録の前編はこちら

※三宅陽一郎氏と藤田一照氏の対談編はこちら(前編)(後編)。