『Harvard Business Review』を支える豪華執筆陣の中で、特に注目すべき著者を毎月1人ずつ、首都大学東京名誉教授である森本博行氏と編集部が厳選して、ご紹介します。彼らはいかにして現在の思考にたどり着いたのか。それを体系的に学ぶ機会としてご活用ください。2018年12月の注目著者は、GEのジャック・ウェルチをはじめ、世界的大企業のトップ・マネジメントたちとともに歩んできた、経営コンサルタントのラム・チャラン氏です。

インドに生まれ、騒乱の時代を生き抜く

 ラム・チャラン(Ram Charan)は1939年生まれ、現在80歳である。グローバル企業のトップ・マネジメントを対象とする著名な経営コンサルタントであり、その専門分野は、組織文化を変革するためのリーダーシップと人的資源管理である。

 チャランはハーバード・ビジネス・スクール(HBS)でMBAとDBAを修得し、HBSで助教授を務めた経歴もある。ただし、チャランのそれまでの人生は、必ずしも順風満帆ではなかった。

 チャランは7人兄弟の6人目として、インドのニューデリー近郊にあるウッタル・プラデーシュ州ハープルで生まれた。一家は叔父の家族と一緒に、一つ屋根の下で17人が暮らしていた。父と叔父はもともと布地を販売する商店を営んでいたが、1947年、チャランが7歳のとき、インドの独立にともなうヒンドゥ教徒とイスラム教徒の争いに巻き込まれて焼かれてしまい、復興後は靴屋を営んでいた。

 子どもたちは学校に通わせてもらっていたものの、学校が始まる前の朝、そして学校を終えて帰宅してから夜まで家業を手伝った。のちに世界的大企業の経営コンサルタントとなるチャランは当時を振り返り、自分が初めてビジネスに関係したのは、10代の頃に家業の靴屋を手伝ったことである、と述べている。

 年長の兄弟や従兄弟は、14歳で義務教育を終えると家業に従事したが、チャランだけは例外であった。それは、ある日、学校の先生が店を訪ねてきて、チャランを上級の学校へ行かせるように説得したからだ。

「ラム・チャラン」として新たな人生を歩み始める

 チャランは15歳のとき、他の入学者より2歳も若く、インドで著名なバナーラス・ヒンドゥー大学の機械工学科に進学した。1959年、20歳で同大学を卒業すると、カルカッタのジェイ・エンジニアリングに就職したが、わずか5ヵ月で辞めてしまった。働きながら大学教育を受けることができる、オーストラリアのワーキング・プログラムに応募したからだ。オーストラリア・シドニーまでの旅費は、祖母が大事にしていた宝石を売って工面してくれた。

 チャランは留学先のニューサウスウェールズ大学で、経営工学を専攻した。昼間は大学の紹介で見つけた配電会社の製図工として働き、夜は大学で学ぶという生活を送っていた。

 オーストラリアに行くにあたり、チャランの人生を左右する、ある革新的な出来事があった。インドでは民族や地域によって、あるいはかつての日本のように階層に応じて、苗字を持たずに個人名だけの場合が多い。チャランの家族にも苗字はなく、チャランの個人名は「ラムチャラン」であったのだが、オーストラリアへ行く際のパスポートを取得する際に名前が2つに分けられて、現在の「ラム・チャラン」となったのである。

 チャランは、1963年に同大学を卒業すると米国に渡り、オーストラリア滞在時から志願していたHBSに入学した。当時のHBSは週に6日間講義があり、1日で3ケースについてクラス・ディスカッションがあった。学生たちはディスカッションで発言するために、前日までにケースを要約し、問題点を抽出し、解決策を検討する必要があったが、学生同士が分担してそれぞれのケースを検討し、お互いのノートをシェアするのが毎晩のように行われるのが通例であった。

 だが、チャランはそこに加わることなく、独自に発言の準備をした。HBSの夏休みには、暖かいハワイに行き、ホノルルのガス会社に勤めて生活資金を稼いだという。

 HBSでは、2年間の講義を通じてカテゴリーⅠの成績が7割以上、上位5%以内の成績優秀者に対してベーカー・スカラー(Baker Scholar)が授与されるが、チャランには上位3%以内の成績優秀者に贈られる“Baker Scholar with High Distinction”が授与され、1965年にMBAを修得した。2年次には博士課程への進学を薦められた。博士課程では今日の経営戦略論に相当する“Business policy”を専攻した。

インド出身者初のHBS専任教員に就任

 チャランは博士課程を2年間という短期間で修了し、1967年にDBAを授与され、同年HBSの助教授として採用された。HBSには、現在学長を務めるニティン・ノーリア、同校最年少で教授昇任を認められたパンカジュ・ゲマワットなど、インド出身者でファカルティメンバーになった者が今日多数存在するが、チャランはインド出身者の専任教員の嚆矢となった。

 チャランはHBSに助教授として5年間在籍したが、1973年にイリノイ州エバンストンに移り、ノースウエスタン大学ケロッグ・スクール・オブ・マネジメント(以下ケロッグ)の准教授となった。

 HBSでは、助教授就任から5、6年で准教授に昇任するのが通例であったが、准教授となり、さらにテニュア(終身雇用資格)を得るためには、ケースの執筆に加えて、調査研究に基づく多数の論文を執筆し、ジャーナル誌に投稿・掲載されることが必須であった。そういったことを好まなかったのが異動の動機である。

 チャランはケロッグに3年間在籍したが、やはりテニュアを認められるために研究業績を求められると、1976年にボストン大学からテニュアの教授として招聘されたのを機に、ボストンに戻った。だが、同大学でも教授としての研究業績を求められた結果、1978年、39歳でボストン大学を辞めて、経営コンサルタントとして独立することを決意した。

トップ・マネジメントの経営コンサルタントを目指して

 チャランは1981年、ボストンからはるか南方に位置し、インドの気候に似ているテキサス州ダラスに部屋を借りて、チャラン・アソシエイト(Charan Associates Inc.)を設立した。ただ、ダラスにいることはほとんどなく、オフィスでスケジュールの対応や資料をまとめるアシスタントと連絡をとりながら、全米の各都市や世界各地の顧客企業を訪ねた。主な顧客は、ゼネラル・エレクトリック(GE)、KLM、バンク・オブ・アメリカ、デュポン、ユニバーサル・スタジオ、ノバルティス、メルク、EMC、3M、ベライゾン、タタなど、世界的な大企業であった。

 経営コンサルタントといっても、著名なコンサルティング・ファームに在籍したわけではないため、グローバル大企業のトップ・マネジメントとすぐに会えるわけではなかった。彼らと交流を持つ契機となったのは、『Harvard Business Review(ハーバード・ビジネス・レビュー)』(以下HBR)誌に掲載された、ジャック・ウェルチへのインタビュー論文、“Speed, Simplicity. Self-Confidence: An Interview with Jack Welch,” with Noel M. Tichy, HBR, September-October 1989.(邦訳「ジャック・ウェルチが語る自己革新型ミドルの創造」DHBR1994年11月号)であった。

 同論文共著者のミシガン大学ビジネス・スクール教授のノール M. ティシーは、1982年からGEのコンサルタントを担当しており、1985年から1987年まで一時的に大学を離れて、GEクロトンビル経営開発研究所(Management Development Institute at Crotonville、以下クロトンビル)[注1]に在籍し、エクゼクティブ教育プログラムの開発担当マネジャーを務めた経験があった。のちに、ウェルチ経営を分析した名著といわれる、Control Your Destiny or Someone Else Will, with Stratford Sherman, 1993.(邦訳『ジャック・ウェルチのGE革命』東洋経済新報社、1994年)を著している。

 1981年、GEのCEOに就任したウェルチは、第一段階として「グローバルでナンバー・ワンかナンバーツー」「スリー・サークル・コンセプト」などを打ち出して事業の再編成を終えたのち、1985年以降、第二段階である「ディレイヤリング」と呼ばれる組織階層や本社スタッフの削減を断行するとともに、RCAの買収や金融・保険事業への参入を行った。

 ウェルチは、従来とは異なる、問題解決型のミドルマネジメントの必要性を強く感じていた。そんなウェルチの命を受け、クロトンビルでは、1986年からチームによるアクションラーニングを基本とするEDC(Executive Development Course)とBMC(Business Management Course)の2つの教育プログラムが開始された。

 チャランがクロトンビルに関わるようになったのは、GEが1987年に買収したRCAのマネジメントに対する再教育を目的とした、BMCの講師を務める機会を得たことが契機であった。BMCの目的は、GEの組織文化のコアとなる価値観を認識させ、問題解決型の経営手法を研修させることであった。なお、チャランはクロトンビルのベスト・ティーチャーとして“Bell Ringer Award”を受賞している。

 ウェルチは、時間ができるとニューヨークから1時間ほどに位置するクロトンビルを訪れ、受講生に講話を行うことを日課としており、チャランもウェルチと親しくなる機会に恵まれた。ウェルチはチャランについて、“Ram has the rare ability to distill meaningful from meaningless and transfer it in a quiet, effective way without destroying confidences.”(ラムは、信頼を壊すことなく誠実で効果的な方法で、無意味なものから意味を引き出し、それを転換する稀な能力を持っている)と評価している[注2]

 チャランが次にHBR誌に寄稿した、“Citicorp Faces the World: An Interview with John Reed,” with Noel M. Tichy, HBR, November-December 1990.(邦訳「ビジネス・モデル再構築への軌跡」DHBR1991年5月号初出、DHBR1997年11月号再掲)は、前回同様にティシーと行った、シティコープ会長兼CEOのジョン S. リードへのインタビューである。インタビューでは、1984年に同社会長に就任したリードが取り組んだ、金融機関として世界的規模の陣取り戦略を実践したシティコープと、それに対する組織改革の姿勢、会長としての役割などを引き出している。

GEとの比較から経営を学ぶ

 GEの副会長を務め、ウェルチの片腕ともいわれたラリー・ボシディは、1991年、55歳のときにアライド・シグナルのCEOに指名された。チャランは、“The CEO as Coach: An Interview with Allied Signal’s Lawrence A. Bossidy.” with Noel M. Tichy, HBR, March-April 1995.(未訳)を通して、同社で組織文化の改革を行ったボシディの取り組みを紹介している。

 GEのように、社員がコミットメントし、戦略や業務が確実に実行される組織文化で育ったボシディにとって、アライド・シグナルの組織には驚かされたという。同社にもGEと同様、人材プロセス、戦略プロセス、予算・業務プロセスがあったが、それらのプロセスは管理されず、事業の現実からかけ離れており、確実な実行が保証されていない優柔不断な組織風土であった。

 ボシディは、CEO就任直後の60日間に全米各地で5000人の社員と対話集会を実施し、現状把握を行ったうえで、決断・実行する組織への変革を推進した。アライド・シグナルは、1999年にハネウェルを買収し、ハネウェル・インターナショナルとして発展するが、ボシディの退任前年の2001年には、同社の営業利益率は3倍の15%を実現し、ボシディは名経営者という評価を得た。

 チャランはさらに、“Conquering a Culture of Indecision,” HBR, April 2001.(邦訳「対話が組織の実行力を高める」DHBR2002年1月号)をHBR誌に寄稿した。同論文のタイトルを直訳すれば「優柔不断の組織文化を打破する」であり、これはまさしくボシディの示唆から生まれた論文であった。組織において、対話は業務の基本要素である。チャランは、優柔不断な組織風土には信頼関係が必要であり、そのためには対話を通して、経営プロセスに適切なフォローとフィードバックを与えることで、実行ある組織を可能にすると主張した。

 その後、チャランはボシディと共著で、実行する組織への変革をテーマに、Execution, 2002.(邦訳『経営は「実行」』日本経済新聞社、2003年)や、Confronting Reality, 2004.(邦訳『いま、現実をつかまえろ!』日本経済新聞社、2005年)を上梓している。

 GE副社長として電力部門を率いたロバート・ナデリーは、2000年、ホーム・デポのCEOに就任した。ホーム・デポは、自由奔放で仲間意識を重んじる組織文化を持ち、成長によって生じた在庫回転率などの財務や業務オペレーションには、問題が放置されたままであった。チャランは、“Home Depot’s Blueprint for Culture,” HBR, April 2004.(邦訳「ホーム・デポ:自由奔放な組織文化の改革」DHBR2006年10月号)において、ナデリーが取り組んだ組織文化の変革を事例に挙げ、いわばGEのように、問題解決型の実行する組織文化へ変革するためのツールやプロセスを紹介している。

 チャランは、ジャック・ウェルチ、ジョン・リード、ラリー・ボシディ、ロバート・ナデリーによる組織文化の変革の取り組みについて、独自の分析を交えてHBR誌で紹介してきた。

“You Can’t Be a Wimp―Make the Tough Calls.” HBR, November 2013.(邦訳「意思決定は実行である」DHBR2014年3月号)では、不確実性の高い事業環境にあって、CEOは数限りない意思決定に直面するが、プロクター・アンド・ギャンブルのアラン G. ラフリー、GEのジェフリー・イメルト、ベライゾンのイワン・サイデンバーグなど、当時の優れたCEOに共通する適切な情報の確保や意思決定、さらに実行を導くプロセスについて、HBR編集部のインタビューに答える形で論じている。CEOの資質としては、第一に大きな賭けに臨む勇気と不測の事態に対処する不屈の精神、第二に鋭い洞察を導く察知能力、第三に信頼を醸成する能力を挙げている。

人事改革こそ企業の最優先課題である

 全米267社の大企業を対象にした調査によれば、トップ・マネジメントの指名プロセスに満足している人事担当役員は20%にすぎず、CEOの在任期間を見ると、5社のうち2社は就任後1年で退任しているという。

 企業にとってCEOの選任は最優先課題である。チャランは、“Ending the CEO Succession Crisis,” HBR, February 2005.(邦訳「CEOの『発掘・育成・選抜』のプロセス」DHBR2005年11月号)で、リーダー候補者の資質をアクティブラーニングで見極めるGEの「セッションC」を紹介しながら、後継者育成プログラムの問題点を指摘し、また生え抜きと外様CEOの問題点を比較検討した。

 また、“People Before Strategy: A New Role for the CHRO,” HBR, July-August 2015.(邦訳「CHROは経営者たれ」DHBR2015年12月号)では、人事担当役員であるCHRO(最高人事責任者)の役割を再認識すべきだと主張した。

 CHROは、社員の満足度、仕事への熱意、福利厚生と報酬制度、組織の多様性の管理といった通常の人事関連業務のほか、人事制度の結果の予測、組織の問題の原因究明、企業価値の向上につながる施策の検討なども本来果たすべき責務である。だが現実には、それほど実践されていない。CFO(最高財務責任者)が、資金を調達し、結果を予測して適切に配分し、経営を効率的に管理するように、CHROは、人材を採用・育成し、組織の活力を引き出す人的資源を管理することによって、CEOを補佐すべきだと主張した。

 チャランは最近、人事の役割に留まらず、社会の変化に対応して組織が変化すべき点にも言及している。たとえば、個人向け金融サービスでは、顧客はアプリを介して、いつでもどこでも利用できるサービスを期待している。企業には、そうした顧客の要求に迅速に応える、アジャイル組織に変わる必要があり、そのための組織運営が求められる。

“One Bank’s Agile Team Experiment,” with Dominic Barton and Dennis Carey, HBR, March-April 2018.(邦訳「世界的金融グループはアジャイル手法で組織を変えた」DHBR2018年6月号)では、金融サービスのINGが、IT企業から人材配置と業績管理のためのアジャイル手法を学び、従来型組織を変革した事例を紹介している。

 チャランには多数の著作がある。その特徴は、学究的な理論研究や、コンサルタントによるフレームワークの提示することではなく、著名な経営者が取り組んだ事例の研究から導き出した鉄則や経営指南が多いことが挙げられる。

 チャランは、20歳のときにインドを離れてから、結婚して家庭を持つこともなく、67歳でダラスにマンションを購入して落ち着くまで、世界各地のホテルを転々としてきた。名門大学のテニュアの地位に甘んじずに独立し、ウェルチなど世界のトップ・マネジメントを顧客に持つ経営コンサルタントであることを誇りに、激動の人生とたえず格闘してきた人物である。

 そんなラム・チャランの信念の裏側には、インドの兄弟や従兄弟たちの家族と異なり、自由な人生を歩んだ責任への重い意識がある。チャランの最近の著作であるTalent Wins, 2018.(未訳)の巻頭に、こんな一文が載っている。

“Dedicated to the hearts and souls of the joint family of twelve siblings and cousins living under one roof for fifty years, whose personal sacrifices made my formal education possible.”(50年間、ひとつ屋根の下でともに暮らす12人の兄弟と従兄弟たちの家族に心と魂を捧げる。兄弟と従兄弟たち一人ひとりの犠牲のおかげで、私は人並みの教育を受けることできたのだから)

[注1]クロトンビル経営開発研究所は、1956年に当時のCEOであるラルフ・コーディナーの指示により、クロトンビルにリーダーシップ研究所として設立された。現在は「ジョン F. ウェルチ・リーダーシップ開発研究所」と改名されている。
[注2]Fortune, April 30, 2007.より引用。