糸井氏と「ほぼ日」にとっての上場

 そのように捉えると、今回の上場もまた少し違った景色が見えてくる。たしかに公言されているように、上場は「ほぼ日」のさらなる成長を目指した、人材獲得のための資金調達も目的なのだろう。ただ、それと同時に様々な潜在的な問題を解決する手段――上で言う「アイデア」――だとも認識されていたのではないか。

 たとえば、まずは「ほぼ日」が糸井氏の個人的事業だという一般的な認識を払底して、一企業として認知されることや、そうした情報の発信によっていままでとは異なる人材にアプローチすることなどである。それには、単に事業や会社の独自性などのアピールよりも上場というシグナリングの方が、より広く徹底した周知になる。

 また、上場によって会社が公的な存在になることで、市場や投資家といった外部環境との対話をすすめる必要も出てくる。そうした対話や説明の必要性を刺激として、同時に社内も変革していくきっかけにもしようとしたとも考えられる。言い換えると、「ほぼ日」にとって上場は、それ自体だけでなく、その課題の周辺に広がっている、組織にとって既知・未知両方の課題解決も含んだ手段であり、試行錯誤の過程なのではないだろうか。

今後どうなっていくか:「糸井さんがいてこそのフラット」

 その試行錯誤のなかでは、当然ながら糸井氏の引退も見据えられているだろう。糸井氏なしでも「ほぼ日」は持続可能か、というのが多くの人の関心だと思われるが、端的にいっていまはまだ難しいと思う。

 糸井氏が抱えている役割をいかに複数人に分散していくかと、いかに糸井氏個人にではなくサービスやブランド自体に信頼を寄せるかの2点は差し迫った現実的な課題だろう。今年4月に発表された、雑誌『考える人』の元編集長・河野通和氏や元東京大学教授の早野龍五氏の「ほぼ日」への参画は、前者の方向性を示す人材獲得であるし、直近の「ドコノコ」や「生活のたのしみ展」などの新たなサービスの立ち上げは、後者の信頼の種となる事業の創造が意図されていると思われる。

 そうした課題とは別に、個人的に気になっている点がある。組織論ではフラットな組織は、階層の少なさゆえに潜在的に政治的な争いを生む危険を抱えることも知られている[注]。そうでなくとも、社員同士のフラットさと、判断力や階層差といった差の両方の認識を組織のなかで用いつつ、その両方を欺瞞ではないと納得させるには、緊急的な介入が恣意的でなく妥当だと思われるようなマネジメントをしなくては成立しない。

 現在は、その点は糸井氏の存在によって回避されているように伺える。社員からは、「『ほぼ日』はフラットな組織ですが、糸井さんがいてこそのフラットなんです」といった声や、「糸井さんは『フラット、フラット』って言いますけどね、全然フラットじゃないですよ。糸井さんは、自分を抜いてしゃべってますからね」といった声が聞かれる。

 どちらも社員同士が対等なことは認めつつ、糸井氏だけ例外で、さらにその存在によって他の社員同士のフラットさが保たれていると認識されている。この、最後まで残ると思われる影響を、どのように思想として残しつつ、同時に別の人間でも代替可能になるように言葉を紡ぐのだろうか。それは「動機」概念を上回る創造だと思う。

[注]高尾義明『組織と自発性』(白桃書房、2005年)