「センス・メーキング」が生み出す過去と未来

「センス・メーキング」は会社全体の経営メッセージから、個人の行為に至るまで、レベルを問わずさまざまな場面に当てはまりうる。その適用範囲の広さゆえに、何でもありになりやすい。その面では分析には向かない、組織論ではやや悪名高いキーワードでもあるが、経営者や企画者などにとっては、日々の業務のなかでは役に立つ場面の多い概念だと思う。

「センス・メーキング(sense making)」の直訳は「意味をつくり出す」だ。けれども、英語の“make sense” を逆転させたフレーズだと想起すると、そのニュアンスは若干異なることがわかる。“That makes sense!”と言うように、「ああ!それは、たしかにそうだ」「なるほど、わかった!」と相手の頭の中に像を結ばせるような、納得や驚きを与える状況が暗に想定されている。そういった微妙な差異ゆえに、邦訳でも「意味生成」などといった訳語があてられることはなく、カタカナ語のまま「センス・メーキング」とされてきた。できあがった意味というよりも、働きかけのあり方、に近い。

 実際、寺尾氏のバルミューダはその後、トースターに続けてポットや炊飯器など食に関する家電を次々と開発している。「センス・メーキング」という言葉はもちろん使われていないが、トースター開発時での気づきが個別のプロジェクトに対してだけでなく、経営全体にも貫徹しうると気がつかれた。それによって、組織にとって次の方向性の見通しをよくする羅針盤としてもうまく働いた事例ともいえる。

 このようにセンス・メーキングはすでに起こった過去についての回顧ばかりではなく、未来を予感する先取りとしても出現する。つまり、新しい企画を考えているうちに、あるとき突然「これなら、成立する」と確信した瞬間に掴まれたアイデアや言葉もまた、センス・メーキングとなりうる。

 たとえば、現在「ほぼ日」で販売されているアンティーク・ジュエリーのリプロダクション(復刻版)は、「自分で育てるアンティーク」として表現可能だと発見されたとき、企画担当者は「商品として提供できると思った」と言う。

 リプロダクションは、デザインは過去から受け継がれてきた由緒あるものではあるものの、新品で、それ自体はアンティークではない。さりとて価値が低いわけでもない。アンティーク・ジュエリーも併売していたがゆえに起きると想定される、その期待の落差を、どう考えればいいのかと担当者が悩んで出てきた答えが「自分で育てるアンティーク」だった。百年以上経過したものがアンティークだとすれば、リプロダクションはこれから先の未来に向けて、所有者がアンティークとして育てていける商品であり、作品だと位置づけたのだ。

 だんだん、「分析には向かない言葉だ」という意味が、読者の方にもわかってきたのではないだろうか。分析は過去を扱うが、センス・メーキングは徹底的に現在に留まる。それが本当にセンス・メーキングだったかを、組織外の人間が分析しようとすれば、関連することすべてが過去になってからしか語れない。そのときは「あれはこう役にたった」と明確に言ってしまえばいい。でも、実践している当の本人にとっては、未来はどうなるかわからず、過去のこともどう活きているかもまだ定まってはいない。そんな、現在に留まって考え続けなければならない経営や企画の現場では、この言葉は曖昧だからこそ役に立つ。

「ほぼ日」では商品開発だけでなく、このような意味の核心(センス)に重きが置かれている。この組織で企画や運営のために必須として求められる「動機」とは、そもそも、そのような性質も持つ語彙である。

 それは言い換えれば、組織全体としても、上述のような回顧や先取りを半ば自覚的に行っているとも言える。「ほぼ日」における「動機」とは、一人ひとりの企画の発端というだけでなく、その言葉をめぐって、意味を問い続ける器のようなものだ。そのときどきの現在でつかまれた意味によって、過去と未来が照らされるような。

 そして、「ほぼ日」では雑談がそのまま会議になるように、こうした回顧が半ば自覚的にやられている。本記事冒頭の対談連載の一言からも見て取れる。ほかにも月1回、事業支援部が中心になって行う事業の振り返りがあるが、そこでも目的は数値共有よりも、今月どのようなプロジェクトがあり、それはどのような動機と経緯で行われたかをエピソードとして語り、それを共有することだと認識されている。

 先取りもまた、別の機会に非常にわかりやすく現れた場面があった。糸井氏が毎週水曜日に全社員の前で1時間ほど語る「水曜ミーティング」と呼ばれる会議がある。2015年8月のある週の会議で、糸井氏は、まさに先述の「先取り」の感覚をトピックの一つとして取り上げて語った。それはまだ上場の前で、「ほぼ日」が「どういうことをしていく会社なのか?」という問いに対して「夢に手足を。」という答えが見出される前の話だ。

「どういうことをしていく会社なのか?」という問いに対して、糸井氏は次のように話した。お客さんに対して「うれしい」という感情を届けられること。そしてつくり手としては、つくっている最中に、そんな風景が思い浮かんで「よかった」と喜びと安堵とを予め予感することこそ、自分たちの目指すところなのではないか。

 さらに喩えを用いて糸井氏は、次のように続ける。

 直近の試合で、ある野球選手がホームランを打った試合を振り返って、その瞬間の様子を「打つ前から、喜びが身体から溢れていた」とコメントしていた。それは打つ前から、確信に近い予感として、ホームランの感覚を得ていたのだろう。きっと、僕たちが捕まえる必要があるのはこの感覚で、それは「未来の結果につながることを、いまジャッジする」ことなのだ、と。

「未来の結果につながることを、いまジャッジする」……その言葉にも表れているように、こうした回顧や先取りは、それぞれ、過去と未来とを、現在に強く結びつけて感覚させる。

 たとえば、活動の渦中には、それが何を意味するかわからないことが、振り返ったときにようやくわかったとき、それは過去の出来事として理解されながら、同時に現在につながっているものとして感覚される。同じように、核心をつかんだアイデアや言語化は、それがたとえその時点では成果物の全体を見通せるものではなかったとしても、現在から見て、考えられうるいくつかの可能性としての未来を現出させる。「ほぼ日」が組織全体で強く現在を感覚させるのは、過去や未来が組織内ではこうした形式で語られるからだだろう。

 反対に、たとえば定期的なアウトプットの要求や数値管理が日ごろのやり取りの前面に出る組織の場合は、普段、私たちが時計とともに管理しているような、刻々と均等に過去になっていく時間の方が意識される傾向にあるだろう。毎日や毎週、毎月といった時間区分が、自動的に過去と現在を、あるいは現在と未来を区別する指標になり、時間は主観的な意味の了解よりはむしろ、客観的な区分として捉えられる。

 社会学者のニクラス・ルーマンは、そうした、意味の了解を境界とした時間について、次のように述べている。

「過去と未来の間の時間の間隔において、時間の移り変わりの不可逆性が生じているばあい、そうした間隔は現在として経験される。現在は、そうした不可逆の状態が持続するかぎりは続いている。その成り行きを仔細にみることによって明らかになるとおり、つねに二つの現在が同時に与えられており、両者の差異によってはじめて時間が流れるという印象が生み出されている」[注2]

 わかりにくい記述だが、雑談で動いていくほぼ日のような組織を考えるうえでは、こうした表現が理解の役に立つかもしれない。

 私たちが一連のプロジェクトや活動を振り返り、それが何だったのかと反省するとき、過ぎ去った経験を、もはや変えることのできない出来事として把握しなおしている。不可逆性が生じるというのは、そういうことだ。そうしたときにはじめて、移ろいゆく現在は私たちにとって過去として把握され、またそう把握されることで、現在から過去への時間の変遷は意識される。

 逆に、過ぎ去った経験の中にも、まだ現在に続いているものとして変化しつづける可能性をみるならば、それは現在として把握されるか、もしくは「過去の現在化」として、意識されるだろう。時間が流れるという印象が生み出される、というのも、そうした事態を指している。そして、そうした時間とは別に、前述した客観的な時間における現在も意識されうる。「与えられた二つの現在」とは、その二つを指している。

[注2]ニクラス・ルーマン『社会システム論 上巻』(佐藤勉監訳、恒星社厚生閣、1993年、p.121)