経営者の手に、
経営を取り戻す

──時代の遷移は、日本企業の「経営観」に、何を問いかけていますか。

 本格的な成熟や人口減少に直面した日本の環境下での経営に、誰しもがある種の閉塞感を抱いていると思います。「疎外」と言えばかつては労働者の専売特許でしたが、いまや経営者も同様に、経営という労働から「疎外」されているようにも見えます。経営という仕事の先鋭さばかりが強調され、一方で経営の「ふところ」とでも言うべきものは、追い立てられるように狭められているのです。自らの「経営観」を磨くどころか、逆に「外形標準」で日々通信簿をつけられ、気にし続けなければならぬ憂き目にあります。

 しかし、変わらぬ枠を自らに課しながら、狭まるその枠の中で「変化が激しくなった」「競争が厳しくなった」と嘆き続ける自家撞着こそが、閉塞感の正体です。翻って、広い視野と長い時間軸で経営環境の移り変わりを鳥瞰し、そこに自社の経営を位置づけ直してみれば、「はて、相変わらずのゲームのルールの枠内で、ただ競争に精励するプレーヤーの役を演じ続けることが、果たしてこの会社の価値だったのか」という次元の視界が開けてくるものです。

 人口構造も大きく変わる、過去のような成長は望めない、働く人の価値観も変わる、グローバル化の意味も深化する、資本主義のあり方自体も揺らぐ……。そういう状況下にあることを考えれば、それを「どう切り抜けるか」という方法論より先に、「どうあることを善しとするか」という経営の「価値のものさし」そのものの刷新が問われるはずです。自身が無意識に有していた視点や立ち位置を「相対化する」ことは容易ではありませんが、厳しい現実との摩擦や格闘の産物として、「経営観」そのものを自らの殻を破って脱皮させることが、経営を経営者の手に取り戻し、新しい時代の経営を創造するための必要条件です。

経営思考の基層にあった「感覚」

──これからの時代に求められる「経営観」の創造のヒントは、どこにありますか。

 昨今の新次元の環境の下で、相変わらずの枠に囚われて「方法論」ばかりに終始する経営を続けていれば、次第に経営者が経営をしている「質感」のようなものが失われていくのではないかと危惧します。日々、差異を生むことに駆り立てられ、方向感のない競争を強いられるゲームの渦中に、果てしなく溺れ続けるような状況、とでも言えばよいでしょうか。

 ここで「質感」と言っているのは、商品やサービスに心底の信念や愛着があったり、従業員の能力が満開になっていたり、事業の社会的意義に誇りを抱いていたり、組織の一体感に喜びを感じていたり、会社の歴史や先達に感謝をしたり、そして、もちろん資本市場や人材市場で高い評価を受けたりといった諸々、つまり「会社」という存在の総体が、その空気や歴史も含めて持っている、ごつごつとした固有の手触り感です。

 そんなことより「結果がすべて」と片付けるのは簡単ですが、その「結果」と呼んでいるものこそ、繰り返し述べたように既定のものさしによる単なる「計測結果」に過ぎないものです。

 逆に、もし確固たる自分の「価値のものさし」「経営観」の下で経営をしている経営者であれば、その眼には、数字が伸びているのも「会社が善い状態であること」の結果の一つに過ぎない、と映るはずです。

 振り返ってみれば、「会社」がこうした輻輳する価値軸を体内に抱え、そこに独自の「経営観」をもって折り合いをつけながら、総体として存続・発展するものだという認識は、日本ではむしろ当たり前であったのではないかと思います。

 CDIはかつて創業に際して、従来の日本的な「あれもこれも」の思考様式と、「あれかこれか」という戦略的思考様式とを対比し、その間の創造的調和を唱えて、それを「新・和魂洋才」と表現したことがあります。

「あれもこれも」という思考は、何かを捨てて何かを取るという意思決定の明快さの視点からすれば確かに負の側面を持つわけですが、一方で複数の価値軸に対する受容力・包容力を生む思考基盤ともなります。その一方を失って、経営がただ単一明快なだけの思考様式に陥っていくとき、新しい「経営観」を生む「ふところ」もあわせて失われてしまうように思います。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いますが、将来に向けた新たな視点で読み解いてみることで、日本の経営思考の基層に潜在してきた要素には、豊富なヒントが見いだせるはずです。

 

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