戦略的意思決定としての経営戦略

 アンゾフが体系化した経営戦略は、その後に発展した調査研究の根源を数多く内包している。たとえば、アンゾフが整理した戦略的意思決定の4つの要素は、現代でも示唆に富む。

 1. 製品と市場分野(自社がどの市場を事業領域とするか)
 2. 成長ベクトル(自社の成長のためのアクション)
 3. 競争優位(自社の競争優位の源泉をどこに持つか)
 4. シナジー(自社の事業領域間の相乗効果)

 これを見ると、アンゾフはすでに、経営戦略の議論における基本的な要素をカバーしていたことがわかる。1つ目の議論は、のちのポジショニングの概念に通じている。2つ目の議論は、組織が取りうる成長のための施策を概観する。3つ目は、リソース・ベースド・ビューや、そこから派生したコア・コンピタンスの議論につながる。4つ目は、多角化した組織の経営に欠かせない基本要素である。

 なかでも、アンゾフの特筆すべき貢献は、成長ベクトルに関する議論であろう。彼は『Corporate Strategy』より以前、1957年の時点で、組織が成長するために実行できるアプローチをまとめた論文を発表している。その中では4つの成長ベクトルが提唱されており、「アンゾフ・マトリックス」と称されている。それはまさに、軍事戦略を原点に予算・動員計画とその忠実な実行を目的とする従来の発想と、経営戦略の立案を発想の原点とする以後の議論の分水領であった。

 アンゾフ・マトリックスは、縦軸に「製品ライン(Product Line)」(自社が提供する「商品特性」)を、横軸に「市場(Markets)」(市場に存在する「顧客ニーズ」)を取り、成長ベクトルを「市場浸透(Market Penetration)」「製品開発(Product Development)」「市場開拓(Market Development)」「多角化(Diversification)」の4つに切り分けた(図1参照)[注4]。

図1:「アンゾフ・マトリックス」の原型

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出典: DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー編集部『戦略論 1957-1993』(ダイヤモンド社、2010年、p.6)より。原典は、Ansoff, H. I. 1957. Strategies for Diversification. Harvard Business Review, 35(5): 113-24. p.p 114.

 最も馴染みがあるのは、既存の商品特性を既存の顧客ニーズにより深く浸透させる「市場浸透」だろう。たとえば飲料水などの消費財の場合、消費者にその消費量を増やしてもらうことを期待する。耐久消費財であれば、サポート契約を締結してもらうなど、自社との関係、契約を増やしてもらう方向性を指す。

 ただし、これは確度が高い反面、成功で得られる果実も限定的である。より高い成長を望むのであれば、市場ニーズか製品特性のいずれかを新規とする「市場開拓」か「製品開発」に臨まなければならない。市場の開拓は、海外展開など地理的な拡大を図ることもあれば、百貨店専売からコンビニエンスストアへの販売網の拡大も含む。ポカリスエットを風邪治療に有用と売り込んだり、キットカットを受験祈願として売り込んだりするような用途拡大もその範疇である。また、新たな機能を追加したり、仕様を改善したりと、新製品を開発することも成長ベクトルとしては有用である。

 それらを踏まえて、自社の事業領域に成長の限界が訪れて衰退期に入る前に、新規の顧客ニーズに対して新たな製品特性を投入する「多角化」が視野に入る。アンゾフの論文のタイトルが“Strategies for Diversification(多角化の戦略)”であることからもわかるように、その焦点は、多角化の位置づけを明確化することであった。多角化は、他の3つ(市場浸透、市場開拓、製品開発)と比べて広範な可能性を持つ一方で、自社が理解している顧客ニーズとも、すでに提供している商品特性とも異なる製品・サービスを提供する困難を抱えている。自由度が高い反面、既存事業の経験やそれによって形づくられた組織や事業構造の転換を図る必要があり、複雑で高度な戦略的意思決定である。だからこそアンゾフは、これを中心に“Corporate Strategy”を議論した。

 アンゾフによれば、多角化には「水平型」「垂直型」「集中型」「集成型」の4種類があるという。そして企業の長期的かつ持続的な成長のためには、異なる方向性を持つそれらの選択肢を吟味したうえで、戦略的に実行する必要がある。

 水平型とは、近い事業領域に別の製品群を投入する多角化であり、たとえば牛丼の吉野家がうどんのはなまるを運営するような方向性を指す。垂直型とは、自社の調達先や販売先の事業に進出することであり、ユニクロを展開するファーストリテイリングが衣料の自社製造を開始したことや、ドトールがコーヒー栽培に乗り出すことはその例と言える。集中型とは、自社製品と近い製品群への多角化であり、ダイソンがモーターを基軸として、掃除機からヘアドライアーや加湿扇風機に参入しているのはわかりやすい。そして集成型とは、中核事業の競争力を背景に、一見無関係に見える事業に参入することである。たとえば、クリニックや銀行を経営するイオンや、旅行や書籍、保険も扱う楽天の事例が当てはまる。

 このように多角化とは、戦略的意思決定の中でも、既存事業や既存組織のあり方とは最も独立した方向性を吟味する必要があるために、これまで培われた予実管理や生産管理、販売促進の知見とは異なる専門性が求められる意思決定である。それが“Corporate Strategy”の代名詞として、長らく重要な地位を占めていたのだろう。

戦略的意思決定の不在は
いまだ大きな経営課題

 もちろん、50年以上前の時点で、成長戦略の方向性が包括的に語られていた事実は特筆に価する。しかし現代から見れば、企業には4つの成長のベクトルが存在するという主張は至極当然であり、そこに新鮮な驚きや学びを感じる実務家は皆無であろう。それは、多角化に4つの方向性があるという説明についても同様ではないか。ただ、実務家にとっては別の驚きがあるかもしれない。それは、いまだ多くの企業において、戦略的意思決定が経営者の属人的な才覚に依存していることである。

 たとえば、依然として積み上げ型の年次予算が重視され、それとほとんど紐付かない「ポンチ絵」が主役の、経営戦略とは名ばかりの経営ビジョンが申し訳程度に添付される。それは銀行の借り入れ資料に挿入されることはあるかもしれないが、残念ながらほとんどの従業員の記憶に残ることはない。

 また、目標にすぎない各種の数値が独り歩きする傾向も変わっていない。売上高や営業利益、ROE(株主資本利益率)やROA(総資産利益率) といった数値目標を示すことに時間が割かれ、具体的に何をするかの説明が漠然としたまま終わる。本来、目標設定と同等かそれ以上に重要なのは、それをどのように達成するかであるが、それがほとんど議論されない企業も少なくない。

 特に社歴の長い企業であればあるほど、そうした高度経済成長期の方法論を引きずっているように思える。また大企業であればあるほど、変更にともなう混乱も大きいからか、管理会計の発展系としてのABC(活動基準原価計算)やバランスドスコアカードなどの導入にとどまっている。

 多くの日本企業において、経営のビジョン、目標、戦略、予算の間に断絶が存在している。この一因には、第2回でも触れたように、日本企業が創発的な戦略の流れに身を置き、中間管理職が戦術レベルでの提案を無数に積み重ね、その成功体験の蓄積が実質的な戦略的意思決定につながってきたという事実も見逃せない。

 そして、それは成功の1つの方程式として長らく機能してきたものの、産業レベルでの大きな変化が到来したとたんに、その弱みをさらけ出す。日本企業は、多角化した事業の経営管理が未成熟であり、環境判断を基に戦略的な事業ポートフォリオを組み替える戦略的意思決定に慣れていなかった。その結果、雲行きが完全に怪しくなってから事業売却に迫られる悲しい事態が、現在も数多く生まれているのではないだろうか。

 実は、そうした事業再編と混乱の歴史に直面したのは日本企業だけではなかった。1970年代に至るまでに、米国企業も同様の痛みを経験している。特に1960年代末までは、多角化によって経営資源を有効活用することが、企業成長を継続する手段として啓蒙された。しかし、経営資源が無作為に分散した結果、経営陣すら把握できないほど事業ポートフォリオの複雑性化することとなる。子会社や事業の数が数百にもおよび、その名前を覚えることすら困難な状況を招くことすらあった。

 多数の事業が併存するなかでどの事業に追加で投資し、どの事業を縮小すべきなのか。利益率で考えるか、売上高で考えるか、それとも別の指標で考えるべきか。すなわち、多数の事業に多角化した時、その事業間の優先順位をどのように判断すればよいのか。

 これら1960年代の経済成長期には見えていなかった課題が、1970年代初頭より、新たな経営課題として浮上した。そして、その課題解決が求められるなか、実務家と研究者に並ぶ次なるプレイヤーとして、コンサルティング会社が台頭することとなる。

[注4]第3の軸として「地域(既存・新規)」を追加する発展型も存在する。