近代戦争が
軍事における戦略を進化させた

 産業革命とフランス革命、18世紀の後半に生じたこの2つの革命は、19世紀の戦争の姿を一変させた。

 それらの革命を機に、戦争は大規模化し、銃器で武装した歩兵部隊が主役となり、その細緻な運用の成否が勝敗を左右するようになる。それまでは武器弾薬や食料などの物資の生産力が理由となり、戦闘活動に動員できる人員数はおのずと制限されていた。また戦闘に動員する兵力も、国防責任を追う貴族や騎士に限られたり、またそれを雇用するための費用により大規模な動員は困難であったりした。

 だが、産業革命が近代国家の急速な工業化を促進させた。その結果、戦争に用いられる兵器の性能が飛躍的に高まるだけでなく、食料や関連物資の生産、輸送、そして貯蔵技術の急速な進化につながった。産業振興による経済の拡大、製鉄技術の進化、動力技術の発明、移動手段の高度化、さらには通信手段の性能向上など、近代国家が実行できる戦争のあり方を大きく変えたのである。

 それらと相まって、中央集権的な国民国家の形成が、兵力の拡大と補充を容易にした。それまでは王族や貴族など特別な存在が国防の義務を負う形がとられていたため、国民を無作為に戦争に駆り出すことは難しかった。しかし国民国家の成立は、権利の見返りとして国民に国防の義務を負わせ、これにより広く大量の国民を兵力として動員できる体制が整ったのである。そしてこれは、19世紀後半までには主要先進国に広く普及した。

 こうした変化の兆候をとらえ、近代戦争のあり方を変えたのが、ナポレオン・ボナパルトである。銃器や火砲などの技術を合理的に活用し、国家の総力を動員して殲滅戦を展開した戦争は、欧州を席巻した。そして、ナポレオンの革新的な戦争の戦略を省みることが、軍事戦略論の大きな変化に結びついた。

 戦略論の系譜を語るときに必ず紹介されるのが、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』(1832年)と、アントワーヌ=アンリ・ジョミニの『戦争概論』(1838年)である。

 クラウゼヴィッツは、戦争とは拡大された国家間の決闘であるととらえ、敵の完全打倒を目指す決戦戦略を提示した。ナポレオン戦争の観察から論理的に導かれた彼の戦略は、戦争を動態的にとらえ、その実行の側面を重視した。対してジョミニの戦争概論は、これもナポレオン戦争以後の師団編成をもとに議論を進め、機動と兵力集中による攻撃という原則のうえで、しかし計画と準備に重点を置いた戦略計画の重要性を説いた。そのどちらも、資源を大規模に動員して組織的に行動するという点では、企業経営にも示唆を与える議論である。

 国家の総力を動員して殲滅戦を展開することと、そのために入念な準備を行い、動態的に敵の行動に反応しつつ戦闘を継続する方法論の普及は、技術進歩と相まって、20世紀の二度の世界大戦の大量の犠牲者、すなわち第一次世界大戦の1500万人から2000万人の犠牲者、そして5000万人から8000万人とも言われる第二次世界大戦の大量の犠牲者につながった。そして、この悲劇を生み出した戦争のあり方を見直す過程で、また新たな議論が生まれる。その代表格が、ベイジル・リデル=ハートであった。

 リデル=ハートは2つの世界大戦を詳細に分析することから、そこで極めて有効であった戦略を理論化する。たとえば「間接アプローチ戦略」と称して、ドイツがUボートを用いて経済封鎖や通商破壊を行って、経済を弱体化させようとした戦略を解説する。そのうえで、国家総力戦を助長させたクラウゼヴィッツの戦略論に対する批判を展開した。他方では、孫子の兵法書を再発見し、その考え方が世界に広まることに貢献した。殲滅戦に対するアンチテーゼ、それが孫子の「戦わずに勝つ」という言葉を東洋だけではなく、西欧社会にまで広めたのである。

 その後も、軍事戦略の研究は展開を続けていくこととなる。核兵器の登場や、東西冷戦、そして宇宙開発といった時代の変化に対応するかのように少しずつ新たな考え方も登場した。なかには、フレデリック・ランチェスターの数理モデルのように、第二次大戦で用いられた考え方が経営戦略へ応用される動きもあったものの、この時期以降、軍事戦略の知見が経営に応用されることは次第に少なくなっていく。

 その一方で、「営利企業にとっての、何らかの目的を達成するための道筋」という系譜は、20世紀以降独自の発展を遂げ、軍事戦略とは異なる発展を遂げることとなる。国家総力戦の展開と密接な関係を持つ、大量生産、大量消費時代の幕開けが、現代経営戦略の直接的な起源へとつながったのである[注3]。

[注3]軍事戦略の観点からは、ここで紹介した議論以外にも、古典から現代の理論まで読み込む文献は数多い。たとえば『戦略論の名著』(野中郁次郎編著、中央公論社、2013年)は、そうした文献の概要を掴むうえで参考になる。