戦略の起源を
有史以前に見る
組織とは、複数の人間が協調行動を行うときに生まれる。人間の意識が生まれ、何らかの目的を持って他人と協調行動を行った瞬間に、何らかの道筋がその組織に生じたと考えるのが自然である。
そして前史時代の壁画にはすでに、「特定の組織が何らかの目的を達成するための道筋」を実行しようとしている姿が描写されている(図1参照)。
図1:北欧先史時代の壁画

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ここで行われていた戦略はむしろ現代に近く、おそらく創発的な戦略が実践されていたと考えらえる。ある程度の事前計画が行われていたとしても、それを高度化するための記録手段や意思伝達手段が限られていた。なにより人類としての思考や意識が未発達であったと考えられるため、プランとしての経営戦略を当時の人類が詳細に立案することは、ほぼ不可能であっただろう。
当時の戦略は、より創発的であったと考えられる。動物的な野性の勘であり、自然との一体感であり、日常の繰り返しから生じる組織学習が集団の共有知をつくり出し、次第にそれが組織の行動の一貫性につながったのだろう。だからこそ、それは体系化された知識にはなりえず、文字通り原始的な姿で表出し、先人たちの行動パターンから次の世代に伝承され、次第に磨き込まれたのではないか。
そこから時が進み、文明が黎明期を迎えると、それらは少しずつ高度化していく。たとえば、紀元前4000年ごろのレバント地方(東武地中海沿岸地方。現在のイスラエルやレバノンの地域)には、小規模ながら多数の工場が存在し、分業体制が確立されていたという。すなわち、そこにはすでに組織があり、営利を目的とする経営があった。いまから6000年前には、現在の我々が「企業」と呼ぶ組織の原型が活動していたのである。
また紀元前2600年頃から興隆したインダス文明では、陶器に製品のブランドやトレードマークを掲示することが一般的であったと言われる。モヘンジョダロやハラッパ、そしてロータルから出土した土器には、コブ牛(Zebu bull)やユニコーンの刻印が押されていた。これはまさしく、ブランディングによる商品差別化が行われていたことを示す。組織的な生産活動のみならず、販売活動の発展についても、いまから4600年前には始まっていたのである。
さらにこの時代、栄華を誇ったエジプト文明では、人間の組織的な行動はより大規模となっていた。運河やピラミッドなどの巨大建造物をつくるにあたって、数千人以上の人間による協調的な活動が行われるようになる。これは現代の感覚からしても大規模プロジェクトと言えるものであり、もはや事前の企画と計画なくしては実行が難しい。
たとえばクフ王の大ピラミッドは、紀元前2560年頃、延べ20万人が30年の歳月を費やして建設した一大プロジェクトであった。建設会社の大林組が昭和53年に面白い試算をしている。この建設には、1980年代の技術を用いても3500名の要員が必要であり、工期は5年、総工費は1250億円が必要であったというのである(表1参照)。
表1:大林組によるピラミッド建設費用試算

出典:http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/pyramid/p04.htmlを基に作成
人間の組織的活動は、文明が発達するに従って、その規模を飛躍的に拡大させてきた。しかしそれでも、現代的な意味での経営戦略が体系的な知識として整備されていたわけではなかった。職人芸の徒弟制度による伝承が、ノウハウの蓄積の主要手段として活用されていたのみである。
最古の戦略書とは何か
フロンティヌスによる『ストラテーゲーマトーン』は、紀元前1世紀の終わり頃に記されたと言われている。ただし、戦略について議論した最古の書物ではない。
戦略という言葉は用いていないものの、「特定の組織が何らかの目的を達成するための道筋」をどのように立てればよいかを体系的に議論した、それ以上に古い書物が存在する。それが「孫子の兵法書」として現代にも伝わる兵法の体系である。
同著は紀元前500年頃から、原著者である孫武や後継者と支持者の手により徐々に成立した。この書をもって戦略論の原点とする主張は多い。たしかに、少なくとも軍事の戦略という観点からは、間違いなく孫子の兵法書こそがその体系化の先駆けであろう。
孫子以前の戦いは、天運に身を委ねるという要素が強かった。生贄を捧げ、神に祈り、身を清めることこそが勝利につながる最短経路と見なされていたのだ。しかし、戦いの勝敗を人間の知識と行動により左右できることを明示的に主張し、その方法論を13編からなる一連の理論体系に取りまとめたことが、孫子と、その意思を継いで体系化に貢献した者たちの大きな貢献である(たとえば、三国志に登場する魏の曹操は現代に残る孫子の兵法書の底本『魏武帝註 孫子』を編纂している)。
『孫子』が時代を超えて価値を持つ理由として、これが単なる戦術書ではなく、戦いという行為に対する哲学的な示唆を持つことも無視できない。戦争という行為を国家運営の一手段ととらえ、戦闘行為のみならず、補給や情報戦にまで言及している。ときに戦わないことを説き、その論は負け方にまで及ぶ[注2]。
その後、近代に至るまでに数多くの兵法書が記されたが、現代にも読み継がれる作品は稀である。それではなぜ、『孫子』が時代を超えて注目を浴び続けることとなったのか。それには時代を大きく進めて、近代の軍事戦略論の発展に目を向けなければならない。