ただひとり、用意周到な瀧本さん

 鑑賞ワークでユニークな視点を存分に発揮した参加者は、実際に絵を描くことに対して、どう感じているのでしょうか。
「絵は嫌いです。苦手です。必要であれば、アウトソーシングしますね」
 瀧本さん“らしい”答えです。
「絵を描くことは、ないですね」
 田中さんも瀧本さんに続きます。
「私は好きでしたね」
 中原さんはそう言います。それに頷く茜さん。
「でも、小さいころは……ですけどね」
 いつものことながら、絵と近いところにいる参加者は皆無です。しかし、このワークショップは絵を描きます。しかも、小学校時代にやった写生や静物画を描くこととはまったく違います。頭の中にある「思い」を絵にする、見えないものを見えるようにする。そんな課題が待ち構えているのです。

 テーマは「働くうえで大切にしていること」。参加者はそれぞれの思いをもとに、イメージを膨らませていきます。
 絵は、12色用意された画用紙の中から1枚だけ選びます。画材はパステル。画用紙にパステルで色を乗せたら、それを指でこするのがルールです。4万年前に洞窟壁画から始まったとされる絵画。当時と同じ手法を体感してもらうためだといいます。

 いよいよ、参加者の「描く」時間が始まりました。
 田中さんは青、中原さんは黄緑、茜さんは黄色、そして瀧本さんは水色を選びました。3人は画用紙を持ってテーブルにつきましたが、瀧本さんは画用紙をテーブルに置くと、おもむろにジャケットを脱ぎ始めました。
 珍しいことではありません。気合の入った参加者に見られる行為です。しかし、ここからが違いました。持ってきたバッグの中から「布状の物体」を取り出したのです。

 エプロンでした。
 白地のシワクチャのエプロンです。
「普段は使っていません。しまい込んでいたのを持ってきたんです。突飛ですか? でも一見突飛に見えることでも、よくよく考えると正しいことで、しかもリスクヘッジしているという状態が、僕は好きなんですよね」
 リスクヘッジ。瀧本さんがおっしゃると、ものすごく大きな危険が迫っているように勘違いしてしまいそうですが、この場合のリスクは「服が汚れること」ですから念のため。(後から聞いたところによると、実は念には念をいれ、着替えのTシャツまで準備していたとのこと!)
 瀧本さんは、エプロンを笑顔で身にまとっていきます。参加者、スタッフをはじめ、その場にいた全員がエプロンにくぎ付け。一瞬にして思わぬ盛り上がりを見せます。

 描き始めると、みなさんの顔から表情が消えました。
 でも、絵を描くことに興味がないようには見えません。絵を描くことに苦しんでいるようにも見えません。何かに夢中になっている顔、何かに没頭しているときの表情。そんなふうに見えました。
 誰かと話をするでもなく、人の絵を気にしたりするでもなく、ただひたすら画用紙に向き合う。黙々と指を動かし、ひとしきり考え込んでは、また指を動かす。その繰り返しによって、画用紙にはさまざまな「思い」が描かれていきました。

 ただ、瀧本さんだけは少し様子が違いました。

 ワークショップには「描くときには指でこする」というルールがあるのですが、瀧本さんはいっさい指でパステルをこすろうとはしませんでした。
 しかも、当初の説明で「最低でも40分は描いてください」と言われていたのに、30分もしないうちに描き終え、さっさとサインを入れて終了してしまいました。

 たしかに、スタートダッシュは誰よりも早かった。
 全体の構図ができ上がるのも、必要なところに必要なパステルを入れるのも、最速で進んでいました。あとでお聞きすると、こんな解説をしていただけました。
「瀧本さんは決断が早いですねと言われます。でも、早く見えるのは、事前にものすごく検討しているからなんです。この絵も、テーマを聞いてから頭をフル稼働させて構図やコンセプトを考えました。描き始めるときには、すべてができ上がっていたのです」