時は1299年、繊維の産地として知られるイタリア北部の街プラート出身の商人が、シャンパーニュ行政区の司法官(監視団)に訴状を提出した。商人、義務不履行の客、そしてシャンパーニュ側の対応をめぐる物語には、大市を繁栄させた法則の一端がよく表れている(そして、あらゆるプラットフォームにも適用できる)。

 プラートの商人の訴えによれば、あるフィレンツェ人の客が、市の終わりになっても勘定を支払わず、1600リーブル(英国ではポンド)の借りをつくったままロンドンに逃亡した。

 問題は、その莫大な額である。当時の基準からすれば、仕事や人生が台無しになるほどの大金だ。1ポンドは約360ペニー。英国の職人の稼ぎは1日当たりせいぜい4~5ペニーで、1年に換算すれば約4ポンドだった。したがって1600ポンドは、腕のいい職人にとって400年分の所得に相当する。

 生活必需品に換算すると、1600ポンドあれば10万羽の肥育鶏かウサギ、何トンもの塩かコショウ、あるいは20頭の軍馬を買うことができた。また、ロンドンブリッジにある店舗すべてを10年間借りられた。男爵の娘の花嫁持参金を払い、1400人を招いて結婚披露宴を行い、残った分で中庭付きの石造家屋を6棟建てるのに十分な金額だった。それは英国の伯爵や公爵の年収にも匹敵した。

 プラートの商人にとっては愉快ではない。なぜなら、破産を意味するからだ。

 シャンパーニュの大市の監視団は、市の管理と司法面の監視をシャンパーニュ伯から委任された男たちの集団だ。彼らはくだんのフィレンツェ商人に何通も書簡を送ったが、いっこうに反応がない。そこで、ロンドン市長に連絡を取った。

 今度は市長が取り調べを行ったが、借金はないと判定した。取り調べが中世の典型的なやり方であったならば、そのフィレンツェ人は市長室の職員数人に金をつかませ、これで一件落着と考えたのだろう。

 しかし、彼は間違っていた。監視団の判断は誤りで、フィレンツェ商人の容疑は晴れ、本件は解決とする――そう告げてきたロンドン市長に対し、監視団は「大市でのあらゆる商業活動を禁止する」という脅しをもって反撃したのだ。その対象は容疑者のフィレンツェ商人ではなく、フィレンツェの他の商人でもなく、「ロンドンの商人すべて」を大市から締め出すとしたのである。監視団は合わせて、ロンドンの商人たちにも最後通告を発した。

 翌年の市開催までに(中世の司法における時間感覚からすれば「瞬時に」と言える)、くだんのフィレンツェ人は1600リーブル全額を支払った。ロンドン市長に強要され、ロンドン中の商人たちにも突つかれたであろうことは間違いない。

 監視団は、はるか遠方にある英国の法廷にこれほどの影響力を及ぼした。この事実は、シャンパーニュの大市が中世の商業において果たした役割の大きさを物語る。そして、その役割と影響力を保とうとしたシャンパーニュ伯の努力の証でもある。

 なぜロンドンの商人たちは、監視団の要求をすぐに、黙って受け入れたのか。

 たとえば、自社と顧客をつなぐ唯一の手段がアマゾンであるという世界を考えてみよう(これは今日のビジネス環境を踏まえれば、あながち的外れでもない)。大市から追い出されることは、アマゾンのブラックリストに載せられることに等しいのだ。その影響は壊滅的であり、商売の破綻を意味したであろう。