西暦1180年頃、当時のフランス王権から独立していたシャンパーニュ地方(現在のフランス北部)で、定期的な交易市が始まった。欧州全土から商人と金融業者が集まるこの大市を、ある歴史家は「欧州交易の一大中心地」と表現している。

 市は年間を通して定期的に行われ、シャンパーニュの6つの町を順に巡り、6週間ずつ開かれた。商人たちは最初の8日間で準備を整え、残りの日々は、織物の市、次に革の市、その後は香辛料その他の量り売り商品の市、と順に割り当てられる。そして、最後の4日間で勘定が清算される。

 市の周りには必然的に、金回りがいい男たちの大集団をターゲットにして他の商売がたくさん発生した。酒場と売春宿が繁盛し、地元の事業主たちも儲けに預かった。

 この頃シャンパーニュを治めた歴代の伯爵たちは、中世における市場設計の先駆者だった。彼らは市場の創造者としての中心的な役割を、直観的に理解して果たした。まっとうな参加者たちを招き、(より重要な点として)不適切な輩を寄せ付けない。ルールを設け、違反者を罰し、安全で信頼できる場を保証する――。危険がはびこる中世欧州において、このような場は商人たちにとって非常に貴重であった。

 また庇護の見返りとして、シャンパーニュ伯は取引1件ごとにわずかな対価を徴収し、巨大な富を築いた(この取引毎のわずかな分け前こそ、今日の起業家をプラットフォーム事業へと向かわせる魅力である)。

 もちろん、伯爵たちには「プラットフォームを設計する」という意図があったわけではないものの、それでも見事に成し遂げた。シャンパーニュの大市は1世紀近くにわたって繁栄したが、それは中世のプラットフォームの設計において彼らが下した賢明な判断によるところが大きい。

 シャンパーニュ伯は、交易市/プラットフォームをうまく機能させる方法を直観的に知っていた。特定利益集団に特権を売り渡すことを避け、むしろ保証制度を標準化して万人に提供した。また公平な法を制定し、さまざまなレベルで執行した。1170年には監視団を設立して、市の取り締まりと契約署名への立ち合いをさせるようになる。紛争の解決や契約の確実な履行のために、市の中に4段階の裁判所を設け、罰金の科料、差し押さえ、取引禁止、および投獄の権限を与えた。

 シャンパーニュ伯は、市の参加者たちに幅広く保護と安全を提供した。訪れる商人のために宿泊所を設け、市の周辺には防塁を築いた。市は近隣のまっとうな人々だけでなく、盗賊たちにとっても魅力だったに違いないからだ。

 保護の対象は、市に移動中の人々にも及んだ。1148年、フランスの某貴族が、ヴェズレーから市に向かう途上の両替商たちから金品を強奪した。すると伯爵は、フランス王に書簡を送り、両替商に全額を補償するよう強く要求した。1220年には、このような保護の対象地域はフランスだけでなく、イタリアにまで及ぶ。

 シャンパーニュ伯はさらに、さまざまな集団(たとえば教会)を関与させて市を発展させるために、市への支払いを一部猶予したり、ローンを保証したりした。現代でも似た例として、一部のクレジットカード会社は法人顧客を呼び込むために、加盟店への支払いを肩代わりする。モールのオーナーは客足を増やすために、集客力の高いテナントにディスカウントを提供する。伯爵はまた、すべての債権と債務の清算に現金ではなく公正証書を用いるよう奨励した。商人たちが、大量の現金というリスクを負うことなく旅ができるようにするためである。

「えこひいきを一切しない」「ルールの公平な適用を徹底する」――伯爵のこの強い意志があったからこそ、シャンパーニュの大市はかくも魅力的になったのだ。これにより、中世の交易の好循環が生まれた。市が長らく続くであろうと知っている参加者は、公平な取引業者だという評判を打ち立てようと尽力した。毎年同じ顔触れの参加者と繰り返しやり取りするため、インチキ業者や悪徳業者の噂はたちまち広がるからだ。そうして賢明な伯爵が築いたルールのおかげで、市に必要な当事者全員が、1度参加すると必ずまた戻ってきた。

 シャンパーニュ伯の取り組みは、親切心からではなかった。市はシャンパーニュのリーダーたちに莫大な富をもたらす。それによって彼らは、聖地への十字軍遠征の資金援助や、テンプル騎士団の創設の後押しができた。また、みずから詩作などの優雅な趣味に携わる時間を十分に持ちながら、当代きっての芸術家たちにも支援していた。

 上記に述べてきたすべては、中世の司法史上でも珍しい、あるエピソードを理解するうえで役に立つ。