自分を知るのは
思いのほか難しい

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」

 これは、かの有名な中国の兵法書『孫子』に書かれている格言である。

 お客様のことを知っていれば、彼らが望んでいる商品やサービスを提供できる。上司のことを知って入れば、上司の意図を理解し、素早く業務をこなせる。同僚や部下のことを知っていれば、チームを上手にとりまとめられる。

 だが冒頭の例からもわかるように、敵(他人)を知ることは難しい。それゆえ、この格言には深い意味がある。

萩原一平(はぎわら・いっぺい)
NTTデータ経営研究所情報未来研究センター長、ニューロイノベーションユニット長、デジタルコグニティブサイエンスセンター長、研究理事・エグゼクティブコンサルタント
早稲田大学理工学部電気工学科卒業。プリンストン大学大学院電気工学・コンピュータサイエンス(MSE)修了。電機メーカー、シンクタンク勤務を経て、1997年より現職。脳科学、ライフサイエンス、地域経営、環境などの分野でマネジメントや新事業に関するコンサルティングを中心に活動。著書に『ビジネスに活かす脳科学』『脳科学がビジネスを変える』(以上、日本経済新聞出版社)がある。

 当たり前ではあるが、相手を知らなければビジネスはうまくいかない。既存のビジネスならば、会社のブランド力や先輩たちが築き上げたチャネルなど、過去の経験の蓄積で何とかできるかもしれない。ただ、それでは新しい事業で成功することはできない。

 この格言にあるもう一つの重要なメッセージは「己を知る」こと、すなわち、自分の会社、自分自身を知るということである。自社のケーパビリティ、自己の能力や性格などを客観的に知ることでビジネスの戦略を間違わずに組み立てられるだろう。だが、これは相手を知ること以上に難しい。

 言うまでもなく、自社が置かれている状況や製品・サービスの内容、特徴、欠点などをきちんと理解しておくことは重要である。常日頃きちんと状況を把握しておけばできるようなことだ。しかし実際には、意外なくらい「己を知らない」ことが多いようである。組織が大きくなればなるほどこの傾向が強いことは、皆さんも経験から理解できるだろう。

 さらに、自身の性格や能力を知ることはもっと難しい。昔から「無くて七癖」(自分では癖がないと思っていても実際は多少の癖があること)と言われるように、自分の性格や癖を知ることはなかなか難しいのである。たとえば、多くの人は自分の能力を平均より上、もしくは平均的だと考えている。クルマの運転が上手か下手かと尋ねれば、「上手いほう」「普通」「平均的」と答える人が多く、下手とは答える人は少ないであろう。同様に、あなたは仕事ができるか、できないかと問われれば、できないとは答える人はほとんどいない。

 人は客観的なデータを基にするのではなく、無意識に自分の脳の中に蓄えられている情報を基に、他人よりも運転が下手ではない、あいつよりは仕事ができると勝手に能力を高く見積もっている。脳にある経験や学習の記憶が無意識にバイアスとなり、客観的に自己を知ることはできるようでなかなかできないのである。

1日の行動の9割は無意識でやっている

 人は変化に適応して生きている。気候の変化、株式市場の変化、組織の変化など、自然・社会・経済的変化から、幼稚園に入る、社会人になる、子どもができるなど個人の成長に伴なう変化、さらにはお腹が空く、眠くなるなど時々刻々と起こっている身体的状況の変化など、身体の内外で起こっているさまざまな変化に対応して生きているのである。そして、この対応の9割以上を脳は無意識に決定して行なっている。[注2]

 朝、目覚まし時計のアラームを聞いて止めることから始まり、トイレに行く、顔を洗う、食事をする、自動改札口に定期をかざし満員の通勤電車に乗り、仕事場に着く。会社の机に向かい、パソコンの電源を入れ、キーボードをたたく……そして、夜、ベッドに入って眠るまで、多くのことは無意識に行なわれている。

「眠る」という行為だけを切り取っても、ベッドに入るところまでは意識的かもしれないが、いつから眠っていたのかを知ることはできない。夢を見るのもそうだ。TV番組を見るのとは異なり、自分で内容を選択しているわけではなく、無意識に見ているのだ。最近の脳科学研究により、脳は私たちが寝ている間は活動していない(休んでいる状態)わけではなく、一生懸命、その日一日で起こったことを整理しているようだということがわかってきた。しかし、私たちはそんなことは知る由もなく、もちろん寝ている間にそれを意識して行なうように指示できるはずもない。

 一度、コンビニエンスストアで飲料を買ったとき、レストランのメニューを開いて食べるものを決めたとき、上司からオーダーされた仕事を実行したとき、部下に仕事の指示を出したとき、自分が行なった意思決定を見直してみてほしい。意外なくらい、その理由が言葉にできないものであったり、バイアスがかかった決定であったりすることに気づかされるのではないだろうか。

 他人を知るためには、相手の身体内外の変化をできるだけ精緻にとらえることが重要である。昨今の情報通信技術やセンシング技術の飛躍的進化により、多くの情報をリアルタイムで捉え、その変化を精緻に探ることは可能になってきてはいる。しかし、その変化に対して、どのように対応するか、その意思決定から行動に移るまでのプロセス、すなわち脳がどのように情報を処理しどういう結論を導き出しているかを知ることは容易ではない。

[注2]ジェラルド・ザルトマン『心脳マーケティング』(藤川佳則・阿久津聡訳、ダイヤモンド社、2005年)