パブリッシャー寄りの管理体制で始まったプラットフォームのもう1つの例として、キックスターターを見てみよう。初期にこのサイトに採用されたプロジェクトは、難関を突破したものだった。クリエーターは同社の承認プロセスを経るまでに、何日もかかることを覚悟しなければならなかった。キックスターターが競合他社を凌駕した理由の1つは、本当に素晴らしいプロジェクトを選択する同社の慧眼にあったのだ。だが同社の収入源は、資金調達に成功したプロジェクトからの手数料だ。したがって事業としては、資金調達の達成件数をできるだけ増やすことが主な目標になる。そうした事情から、同社が2014年に密かにガイドラインを緩めたのは、おそらく不可避だったのだろう。

 プラッティシャーがより多くのユーザーを惹きつけるために制限を引き下げれば、法と倫理の面でグレーゾーンに足を踏み入れることになる。掲載コンテンツに関して責任があるのか、ないのか。成熟期に入るプラッティシャーは、この問題を解決する必要性から、プラットフォームとパブリッシャーのどちらに舵を切るべきか選択を迫られるかもしれない。たとえば2013年にキックスターターで、女性を誘惑するマニュアル本が15万ドルを集めたが、大々的な反発を招いた(英語記事。一方的かつ暴力的に女性と関係を持つ方法が書かれており、まるで「レイプ・マニュアル」だと問題視された)。その結果、同社はガイドブックというカテゴリ全体の閉鎖に追い込まれた。しかし2014年にガイドラインを緩め、以前に禁止や却下していたプロジェクトを再び採用している。そして資金調達のキャンペーンを自動でローンチするプロセスを作り、人間の承認を不要にした。

 スポンサー付きコンテンツについても考えてみよう。仮にグーグルがサイエントロジー教会に対して、「サイエントロジー」の検索結果のトップにスポンサーリンクを表示することを許可したら、あなたはグーグルを責めるだろうか。あるいは、フェイスブックのニュースフィードにサイエントロジー教会のスポンサー記事が不意に現れたら、あなたはフェイスブックに腹を立てるだろうか。多分、答えはノーだろう。だが2013年、『アトランティック』誌にサイエントロジーのスポンサー記事が掲載された時、その旨がはっきりと記載されていたにもかかわらず、多くの非難を浴びた。

 もしも同誌が、パブリッシャーというよりはプラットフォームとして定評があったのであれば、読者はそれほど幻滅しなかったかもしれない。オールドメディアの中で最もデジタル面の革新を進めている部類に入る同誌だが、大きな反発を受け、結局は伝統的なパブリッシャーのルーツに立ち返ることになった。問題の記事を取り下げ、「当誌は先走りしていた」ときまり悪そうに認める結果になった。

 パブリッシャーとプラットフォームの二項対立は結局のところ、目標の違いに起因している。つまり問題は、「自社はプラットフォームか、それともパブリッシャーか」ではない。問うべきは「自社が重視するのは規模なのか、それとも編集力と発言力なのか」である。世界を変える方法として、誰もが使えるツールを作りたいのか、それとも誰もが信頼する声になりたいのか――それを考えるべきなのだ。

 両方できる、と思いたくなるのはもっともであろう。両立に成功する企業もごく稀に現れるかもしれない。だが今日の、嵐のようなメディア環境を進んでいくほとんどの企業の行く末には、重大な選択が待ち構えている。確かにいくつかのプラッティシャーからベストプラクティスが生まれてはいる。しかしそれらの企業が、相反するインセンティブを抱えながら、どちらか一方に傾くことなく生き残れるかは定かではない。


HBR.ORG原文:Don’t Try to Be a Publisher and a Platform at the Same Time January 19, 2015

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リディア・ローレンソン(Lydia Laurenson)
サンフランシスコを拠点とする著述家、リサーチャー、メディア・ストラテジスト。