人は情報を得るためにお金を払ってきたのか?

 まず複製コストがかかったからです。紙に印刷し製本をして書店や駅売店に運ぶなどさまざまなコストが発生するので、無償で情報を渡すわけにはいきません。しかしこれらの理由は情報を運ぶ器が「紙」であったことによるもので、デジタル上のネットワークではこの理由はなくなります。どれだけデジタルデータとして大きかったとしても、ネットに自由にダウンロードできるようにすれば、多くの人が無償で見ることができるようになります。

 もう一つは情報そのものの作成コストが嵩むことです。新聞記者が取材して文章にまとめたり、作家が遂行を重ねて文章を書く。編集者が書き手の意図を伝わりやすいようにする。これらにかかる労働時間の対価をもらわないと、生活していくことはできません。情報開発にはコストがかかります。

 しかし、この論点は怪しい。無償でも情報を読んでもらいたい人がいる以上、この情報開発コストを自己負担しようとする欲求も存在します。いわゆるアマチュアのブロガーなどは対価を意識していません。ここで言うプロとアマの差は作成される情報の質や価値ではなく、職業としているか否かです。読者から見た場合、自分にとって価値ある情報が無償で提供されていれば、従来の紙メディアが課金した情報に目を向けてくれません。ネットでの課金の難しさはここにあります。紙メディアのコンテンツの場合、プロが取材で知りえた情報をもつアマも存在しますし、プロ以上の分析力や解説力をもつアマも存在します。専門性の高い情報になればなるほど、その傾向は強いように思われます。

 つまり世の中の情報の中で、それを職業として制作しお金を払って購入する状況とは、きわめて限定的なのかもしれません。メディア産業が市場を通して扱う情報は世界の情報のなかのほんの一部。その他多くの情報がそもそも自由に流通する特質を備えているのです。

 このように考えると、既存の紙メディアがネットでの課金に苦労している背景の一つには、媒体に囚われない情報の特質に原点があると実感します。人はそもそも情報を得るためにこれまでお金を支払っていたのか。情報そのものの価値と価格との等価交換以外の価値があったのではないかと思わざるを得ません。(編集長・岩佐文夫)