琴坂 なるほど。不適切な比較によって、「失われた20年」という観念が後押しされてきた可能性は確かにありますね。ただ一方で、所得格差の広がりや労働市場が抱える諸問題などのように、日本ではそれ以外にも多くの要因を背景として「失われた20年」が議論されています。

ロッタンティ その通りだと思います。学術文献を読んでも、あるいは日本人の同僚との会話でも、所得格差の広がりや労働市場の問題に関係するキーワードが幾度となく登場します。例えば、「フリーター」「格差社会」「労働の脱標準化」などです。

 よく例に挙げられる、就職難で正社員として内定をもらえない大学院生は、まさしく、そうした苦難の体現者でしょう。職を失った正社員が、非正規の仕事しか見つけられないのもそうです。そのような個々の悲劇は枚挙にいとまがなく、深い悲しみすら覚えます。

 しかし、ブリントさんが述べたように、私たちが経済学者としての責任を果たすためには、一歩引いた目線を持ち、様々な数字を分析しなければならないと考えています。私たちはそのようなプロセスを経て、議論すべき別のストーリーがあるという結論に至りました。

 議論されて当然だと思われるのですが、日本には、これまでほとんど話題にすらならなかった事実があります。先ほどの「視点」の問題がその原因なのかもしれませんが、はっきりとした理由はまだ明言できません。

「失われた20年」に労働市場は拡大していた

琴坂 興味深いですね。数値のような動かしようのない事実で議論を進めるのは、最もパワフルな方法だと思います。具体的には、どのような数値が見つかったのでしょうか。

ブリント 私たちが今回分析した雇用に関する数値をご覧いただき、各自で判断してほしいところではありますが、まずは主要な分析結果を見ていきましょう。

ロッタンティ この図表は、この20年間のいわゆる非正規雇用の増加を示しています。非正規雇用率の増加は、私たちの予想した通りでした。ところが、その絶対数を確認したところ、非正規雇用の総計数が増加しているだけではなく、わずかな増加ではありますが、正規雇用の数も同様に増えていることが判明したのです。

ブリント これには大変驚かされました。日本では1995年以降、15~64歳の人口が縮小し続けているので、就業ポスト数も当然減少していると予想していたからです。ところが、実際には正規雇用の数は減少していません。これは日本企業が正規雇用を「失われた20年」の間に増やし続けてきたということです。

ロッタンティ さらに日本の企業は、この間非正規の社員を大幅に増やしました。約10万人の正規雇用と840万人の非正規雇用が新たに生まれたのです。

琴坂 つまり、非正規雇用の比率が増加しているのは、正規雇用の数が減っているからではなく、非正規の雇用が大量に生まれたからということですね。しかし日本では、業務のアウトソーシングや産業構造改革の進行により、正規雇用が非正規雇用に取って代わられたという理解の方が一般的かと思いますが、その点はいかがでしょうか。

ロッタンティ そういった事例はもちろん存在すると思います。もちろんこの数字は非正規雇用へのシフトを否定するものではありません。事実、いくつかの産業では、正規雇用から非正規雇用へのシフトがより顕著に現れているという研究結果もあります。

ブリント しかし、この数字が示すように、日本経済全体で捉えた場合、正規雇用が非正規雇用に取って代わられたというのは適切ではありません。多くの欧州諸国はこのような結果を喉から手がでるほど欲しいと感じるはずです。欧州の政治家であれば、これを人口減少社会における「驚くべき労働市場の拡大」と謳って大成功例として掲げるはずです。「失われた20年」というレッテルを貼ることなどとても考えられません。

スイスには正社員が存在しない

琴坂 なるほど、おそらく正規雇用から非正規雇用へのシフトというのは一部の産業の議論で、日本経済全体で見れば正規雇用も非正規雇用も共に絶対数で拡大しており、とても「失われた20年」とはいえないという視点ですね。ちなみに、お二人が暮らすスイスではどのような状況ですか。高度に発展した小さな開放経済というイメージがありますが。

ブリント スイス労働法は、イギリスと並んで欧州で最もリベラルな法律です。基本的には、全員が非正社員であり、その契約は特別な条件なしでいつでも終了できます。つまり正社員が存在しません。正社員が存在しないので、正規と非正規の対立も起きようがありませんね(笑)。

ロッタンティ 失業率がわずか3%ですから、そのシステムも悪い解決策とは言えないでしょうね。実際、非正規雇用とはいえ、多くの人がかなり頻繁に職を変えていくような不安定な状況ではありません。

 また、スイスと日本の重要な違いは、スイスではすべての雇用において、会社と労働者が社会保険料を分担する義務が生じるということかと思います。日本の場合、非正規雇用に対する会社と労働者の社会保険料の適用は、一定の要件を満たした場合に限られるため負担が低く、それが雇用者が非正規雇用を選ぶインセンティブにもなっているかもしれません。

 少なくとも、日本の人々が、世界で何が起こっているのかを客観的に理解するために、海外と正しい比較をすることは助けになると思います。

琴坂 視点を相対数から絶対数へ変えることで新しい発見があるという指摘は、とても興味深いですね。またこうした議論をする際に、他国との比較を取り上げるという方法はとても新鮮でした。お二人の主張は、多くの日本人が抱える不安や懸念とまだ違いがあるように感じます。次回以降、その点を中心に議論したいと思います。

第2回「大学進学率と非正規雇用の意外な関係性 スイスの研究者が日本の労働市場を読む」
第3回「女性の雇用は“大躍進”を遂げていた『失われた20年』のもう1つの真実
第4回「バブル水準の予測から1000万超の雇用創出 『失われた20年』の思いがけない遺産」

 

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