これらのコメントに表れているのは、無知ゆえの反応を責める姿勢だ。異議を唱える人は経済についてわかっていない、あるいは少なくとも「危険なエリアから出られない人たちを、自分が親切心から助けに行くことはありそうもない」と認めるべきだ、というわけだ。言い換えれば、供給が足りない時に値上げするという考え方に対する否定的な反応は、まったくの無知――価格メカニズムについての無知、他の選択肢についての無知、またはこうした危機に対する自身(そして同意見の人たち)の反応への無理解――を示すもの、ということになる。

 もちろん、バロとロバーツのコメントには確かな論理的裏付けがある。需要者の嗜好を集約し評価するうえで、価格は極めて有効だ。価格がなければモノの配分は実に困難であり、価格メカニズムを利用しないよりはするほうが効率的だ。その証言が欲しければ、計画経済の下で暮らしたことがある誰かに尋ねてみればいい。また価格メカニズムは、市場がオフィスよりもはるかに効率的であるように見える理由の1つでもある。つまり市場は価格を用いればよいが、組織は往々にして市場が扱うには複雑すぎる状況に対処するために、命令と統制を用いなくてはならない(詳しくは拙著『意外と会社は合理的 組織にはびこる理不尽のメカニズム』を参照)。Uberは単にシステム全体の効率性を高めているだけであり、それがわからない人たちはもっと勉強しよう――以上がバロとロバーツの根拠であろう。

 だが、経済学についてそれなりに知っている私でもなお、ピーク料金というアイデアには良心のうずきを感じる。どうしてだろう。

 それは価格というものに対する人間の反応に関係があるのだと思う。『ヤバい経済学』で取り上げられ有名になった、イスラエルの保育園での実験を考えてみよう。親が子を迎えに来るのが遅れる罰金として、10分ごとに3ドルを徴収したところ、意図的に遅れる親が増えたというのだ。それはなぜか。遅れた行為を金銭で償えるようになったため、保育士に迷惑をかけているという後ろめたさを無くすために、親たちは喜んで身銭を切るようになったのだ。遅刻に対する良心の呵責のほうが、罰金の痛手を上回っていたわけだ。

 シドニーでの事件にも、同様の論理が認められる。値上げに異議を唱える人たち(値上げの正当性を理解している人も含む)は、道徳的な世の中――危険なエリアにいる人を、法外な料金を吹っ掛けずに運び出すことが当たり前の世界――で暮らしたいのだ。自分のいる世界がそうでないことは私も承知しているが、そうであったらと心底願っている。しかも、自分の住む世界が道徳的ではないと認めることは、失敗を認めることのような気がする。

 私が自分の子どもたちに、家の手伝いと小遣いを引き換えにしないのは、これが理由だ(もう1つの理由は、私がけちだから)。お金目当てで家族生活を送るべきではなく、家族の1人ひとりがお互いのために、そしてより大きな集団のためにやって当然のことだと理解してほしいからだ。子どもたちには、人間が利己的だと思ってほしくない。そして家庭に市場の論理を持ち込まないことで、子どもたちが過度に利己的になるのを避けようとしている。研究によれば、市場は人々に利己心と向き合うことを強いるだけでなく、しばしば利己心をエスカレートさせる。

 Uberを擁護する人たちは、今回の世間の反応が理にかなっていることを認識できていない。道義上の問題は、簡単に片付けてよいものではない。もっともバロやロバーツのような人たちは、実際に何かを失うわけではないのでこのような立場を取れるのだろう。だが普通は、Uberは人々の感情を逆なでしない方法を考えるべきだと思うのが自然ではないだろうか。何しろ同社のビジネスは、より多くの利用者と運転手を引き付けられるかどうかにかかっているのだから。


HBR.ORG原文:What Economists Don’t Get About Uber’s Surge Pricing December 17, 2014

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ティム・サリバン(Tim Sullivan)
ハーバード・ビジネスレビュー・プレスのエディトリアル・ディレクター。レイ・フィスマンとの共著に『意外と会社は合理的 組織にはびこる理不尽のメカニズム』がある。