そのうえでレビットは、「ただしアメリカと同じくソ連でも、法律を楯にしてブランドの評判やイメージを守らない限り、ブランドは消費者にとっての意味を失うばかりか、購入を促し、効率化を推し進めるという経済面での機能を果たせなくなってしまう。このため、ブランドや商標を他からの妨害から守れるように、ブランド所有者に最小限の権利を認めるのは、社会の利益にも沿うと考えられる」と、この論文の狙いであったブランドに逆行する法律的な締めつけに反論する。

 企業戦略や経営資源、市場環境の違いを踏まえ、適切な小売手法によって製品イメージや競争力が培われるならば、それもまた適法とされるべきだろうとも訴えている。

「同じ品質の商品であっても自社ブランドは高く売ってもよいはずだ、というのは愚行であり、社会的なコストを発生させる」という指摘もある。まさにFTCの言い分だ。それに対してレビットは、次のように断固として言い切る。

「愚行にきわめて寛容であるためには、分別に支えられた大いなる自尊心が必要であるはずだ。自由主義につきもののあいまいさや混乱を我慢できないのは、病的なまでの完璧主義者か、偏屈なエリート主義者だけだろう。このような人々は、自分の完璧主義を貫くために、他社の自由を犠牲にすることをいとわない。言うまでもなく、だれかにとっての自由は、時と場合によっては別の人にとっての不自由を意味する」


 実際、冒頭に紹介したボーデンとFTCの争いに対し、連邦最高裁判所は次のような判決を下した。

「たとえば1枚のラベルがより多くの顧客に訴え、市場でより高い価格であるとしても、ラベルが等級または品質を決定する目的で製品を分化させてはいない」

時代が評価しきれなかった重要論文

 今回取り上げた「Brand on Trial」は、実は『Harvard Business Review』のアーカイブに収録されていない。またレビットの著作を読んでいる方々でも、2007年に発行されたレビットの論文集『T・レビット マーケティング論』(ダイヤモンド社)で初めてこの論文を読んだという人が多いようだ。実際、邦訳は論文集が初出で、『Diamond Harvard Business Review』本誌では翻訳掲載されていない。

 繰り返すが、現代のブランド・エクイティ論が出る20年以上も前に、レビットはブランドの資産としての価値を見出し、指摘している。この論文を発表した当時に「予見」が正当な評価を受けていれば、ブランド研究は最低でも10年は早く歩むことができたはずだ。

 だが現実には、この論文は評価されなかった。いや、学者も事業家も「評価しきれなかった」というほうが適切だろう。

 そもそも冷戦下の仮想敵国の経験に着目する発想そのものが驚異的である。当時、ソ連の例などは論文の素材にしにくかったはず。にもかかわらず、よくそこに目をつけたなと感心してしまう。今日、ビジネス研究ではインドやミャンマーなどに目を向ける動きがあるが、まったく異なる経済環境にこそヒントがあることを示している。

 研究者としての純粋な視線であったのだろうが、いまとなってはレビットがソ連の例を取り上げた理由は不明である。いずれにしても、最もわかりやすいケースをレビットは提示してくれた。

 ブランド論は、個々の企業の問題として語られるのがほとんどだが、レビットはマクロ経済、経済全体、公共への波及と拡大といった大きな視点を提供している。こういう論文に接すると、経済学部の学生たちなどは、レビットのこうした論文に接してから経済理論に取り組めば、その学びの意味を深く理解できるのではないだろうか。