父親は長州の超保守
面従腹背からパンドラを開けてアメリカへ

石倉 この辺で、徳重さんご自身の、これまでのご経験を伺いましょう。山口県の生まれで、九州大学工学部から住友海上火災保険に入社し、新人時代から商品企画や経営企画に配属されています。これってエリートコースに見えますが。

徳重 故郷は、特筆する産業のない田舎です。親父は超保守的で、『巨人の星』の父親のように、卓袱台ひっくり返しなど日常茶飯。おっかない親父でした。よく覚えているのですが、月に一度は正座をさせられて親父から説教を受けました。「墓参りはきちんとしろ」「保証人にはなるな」などと言われる中の一つに、「会社は絶対に自分でやってはいかん」というのがありました。

石倉 それはすごい。

徳重 どうも爺さんが木材業を派手にやっていたのですが、石炭や石油が出てきて駄目になり、親父は天国から地獄に落ちるという経験をしたようなのです。「会社は景気がよくても、先はどうなるか分からない」が親父の信ずるところになり、一流大学を出て、山口県にオフィスのある一流企業に就職しろ、それが無理なら公務員になれ、というのが親父の口癖でした。

石倉 それに従っていたわけですね。

徳重 面従腹背です(笑)。理数系が得意だったので、大学は化学に行きましたが、これも親父が山口県には化学メーカーが多いからと言ったから。問答無用で、「そこに決めろ!」と。でも本当は経営やビジネスの本が好きで、浪人中は本田宗一郎や盛田昭夫の本を読み漁っていました。在学中も、世界を見てグローバルな事業をしたいという思いが募り、親父とどんどんすれ違っていくのが分かりました。

石倉 それがなぜ損保会社に就職されたのですか。

徳重 親父は化学メーカーに就職しろと言うので表だって反抗できない(笑)。折衷案で、地元にもオフィスのあるNTTを受験することにしたのです。まず一度NTTを受けると決めたからには徹底的に会社のことを調べ、会社に手紙も送ったのです。しかし実際試験を受けてみると、面接官が「やる気がある奴の方が悪い」みたいな態度だったので、「こんな会社にいたら自分の将来はどうなるか分からない」と思って辞退しました。

石倉 それだけ準備をしていたら確実に入社できたでしょうに、辞退してしまったのですね! もうその頃になると、憧れのソニーもホンダなどのメーカーの入社試験は終わっていたんですよね。

徳重 まだ受けられるのは金融しか残っていなくて。後がなかったのですが、面接では、「私はサラリーマン根性で生きたくはない」「プロフェッショナルになりたい」と訴えていました(笑)。結局、住友海上が拾ってくれて、入社早々から経営企画などの重要部署に配属されました。

石倉 結果的にはよかったと思いますが。

徳重 確かにそうです。MBA留学をしたいと申し出れば、会社は送り出してくれたでしょうし、そうすれば、社内ではエリートとして扱ってくれたでしょう。でも、仕事の内容は、望んでいたグローバルとかチャレンジというものとは明らかに違ったのです。4年目ぐらいから「何でこの会社に入ったのか」と自問が始まり、30歳を目前に1年ぐらい悩みました。結局、「俺の人生は親父のせいで2回ずれた。これからはもう親父のことは一切無視して、自分の思うように、好きなことをやろう」と腹を括りました。
 石倉さんは、よくご存じだと思うのですが、米国のMBAを受験すると、「あなたが人と違うユニークさは何か」を聞かれますよね。

石倉 そうですね。米国では、自分というものをよくわかっているか、は常に問われる重要なポイントですから。

徳重 ところが当時の自分は、日本からMBAを受験する優秀大学卒、大企業の人たちと比べると、ワン・オブ・ゼムで何の特色もない。いったい自分は何が違うのかと考えたら、起業への夢とか、とことん最後まで粘り強くやり抜く力、といったことしかない。いろいろ考え抜いた結果、今までの自分が自分らしくなかったのは、親父との関係に起因している、本当の自分はもっと大きな夢を持ち、それを徹底的に追求すること、それが自分のユニークさだ、とパンドラの箱を開けてしまったのです。30歳でしたね。親父はもちろん、結婚する前の妻は賛成でしたが、その家族には大反対されました。しかし、大決断してMBAを目指し、結果的にサンダーバードのMBAに入りました。

石倉 子どもの頃から秘めていた思いが一挙に噴出したのですね。はっきり、「起業しよう」と考えて、MBAを受験した。