そのような機械論的な組織では、目的が与えられれば、後は命令と服従の原理にしたがって、メンバーは感情を入れることなく、一個の歯車として命令にしたがって行動することになる。つまり、数値目標が与えられれば、すべてのメンバーはその数値を達成するために、何の疑問も抱くことなく、役割を淡々と遂行することになる。

 このような組織では、個々人は機械の部品化し、非人間化し、個人としての存在価値を喪失する。そして、個々人がその存在価値を取り戻そうとすると、必然的に全体主義的思想が必要になる。すなわち、世の中で唯一存在価値があるのは全体としての組織である、それゆえどんな個人も、組織の中に位置づけられることなくして存在価値を得ることができないという全体主義を、個々人は受け入れることになる。

 ヴェーバーは、この目的合理的な官僚組織社会から何か恐ろしいことが起こるのではないかと予感していた。それは何か。ヴェーバーにも想像できなかった。幸か不幸か、ヴェーバーは、第二次世界大戦でドイツが再び敗北するという事実を見ることなく、この世を去った。

アイヒマンが遂行した「目標による管理」

 しかし、歴史が語っているように、ヴェーバーの嫌な予感は当たっていた。ヒトラー率いるナチス・ドイツが、ヴェーバーのいう目的合理的な組織をつくり上げる。そして、その組織を利用して大量のユダヤ人を効率的に虐殺していた。

 そこでは目標による管理が実践され、その執行人として有名な人物が、アドルフ・アイヒマンであった。彼は、与えられた「最終解決」、つまりユダヤ人絶滅という目的のもとに大量のユダヤ人を実に効率的に処理していたのである。

 戦後、アイヒマンは密かにドイツを脱出し、家族とアルゼンチンで静かに暮らしていた。しかし、イスラエル秘密警察の執念の調査によって捕えられ、イスラエルへと輸送された。そして、その残虐性を巡って、イスラエルの首都エルサレムで、彼は裁かれることになる。

 その裁判を傍聴していたのが、最近、日本でも注目されている、女性ユダヤ人政治哲学者のハンナ・アーレントであった。裁判で、アイヒマンは一貫して「私は上からの命令に従っただけだ」と主張した。だから、神の前では有罪かもしれないが、法の前では無罪だと主張したのだ。

 法廷は、アイヒマン本人に根源的悪意があったことを徹底的に証明しようとした。しかし、そのような証拠は見当たらなかった。また、検察はアイヒマンの中に、ユダヤ人を嫌う心、憎悪を探そうとした。しかし、これも見つからなかった。むしろ、アイヒマンの親戚にはユダヤ人がいて親切にされており、アイヒマンは彼らに感謝すらしていた。