警報作動の緊急事態でも焦りはなかった

――さまざまなお仕事があるなかで、松浦さんはなぜ宇宙に関わる仕事を志したのですか。

 アメリカの天文学者カール・セーガン博士が監修し、1980年に放送された『コスモス』というテレビ番組を覚えていらっしゃいますか。中学生になっていた私は、友だちに勧められて見たのですが、そこに描かれた宇宙にすっかり魅せられてしまいました。小学生のころから星の観察が好きだったところに『コスモス』を見たので、宇宙への関心が強く湧き上がったのです。

 その後も宇宙に対する憧れは続いていました。大学では宇宙に関係するかもしれないと電波工学を専攻し、就職も宇宙関連の仕事があったらとは思っていました。ただ、ロケットをつくりたい、宇宙飛行士になりたいといった具体的な目標ではなく、ただ漠然と宇宙に近い仕事につきたいという感じです。

 私がNASDAに入社したのは1986年ですが、前年まで女性の採用は事務職だけでした。1985年に男女雇用機会均等法が制定されたことがあり、就職する年にNASDAが初めて女性技術者を採用するという幸運にも恵まれました。大学の先生からそれを教えてもらい、思い切って受けたら入社できたという幸運も重なったのです。

――女性技術者の1期生として入社され、現在はフライトディレクタとして運用のミッションを牽引する立場にあります。失敗が許されないミッションのリーダーとして、どんなプレッシャーがありますか。

 おそらくプレッシャーも感じているとは思いますが、それほど自覚はありません。というのは、訓練で「そんなことは絶対に起こらないはず」と思ってしまうほど、これでもかというほどのトラブルをシミュレーションさせられ、それを乗り越えているからです。

 2000種類近くある手順書のなかから、指定されたトラブルの解決に最も適切な手順書を選び出し、それをチームで共有したうえで、本当にそれが有効な手順かどうかを確認する「えげつない」シミュレーション訓練もさんざんやります。それを経験していると、実際の運用で何が起ころうとも動じることはありません。

 さすがに、それだけの手順書をすべて暗記することはできません。しかし、担当者は自分の仕事に関連する手順は熟知しているので、見当をつけたうえで担当者に聞けば、いくつかの手順書が出てきます。出された手順書のどれが使えるか話し合い、選択してすぐに行動に移す。そういう仕組みで動いています。

 想定外を完全になくすことはできませんが、それだけの数の手順書をつくっていると、さまざまな知恵がついてきます。ぴったりはまる手順書がなくても、この手順を応用すればできるはずだというのはわかるのです。

――過酷な訓練の成果が活かされた経験があれば、教えてください。

「きぼう」がISSの実験室として稼働を始めたころ、警報装置が作動したことがありました。幸いにも大事ではなく、隣にあるヨーロッパの実験室で、宇宙飛行士が誤ってボタンを押してしまったことがわかっています。

 宇宙で火災が起こった場合は、延焼を防ぐための措置が自動的に作動します。完全な誤報だったとしても、それは止められません。そこには「きぼう」も巻き込まれ、いったんすべての装置が止まってしまったのです。誤報ということがわかれば、すぐにダウンしてしまった装置を再起動しなければなりません。それなりにたいへんな作業でしたが、一通り作業を終えたあとにふと気づくと、まったく焦っていない自分がいました。

 その理由は訓練です。厳しく「えげつない」訓練をさんざんやってきているので、本当の火災かどうかはともかく、警報機のボタンが押されたときにすべきことは熟知しています。まったく汗もかかないし、殺気だった怒号が飛ぶこともありません。直接の担当者はさすがに「アドレナリンが出ました」とは言っていましたが、言葉のわりに慌てている様子も見えませんでした。

 この経験で、訓練の大切さを改めて実感しました。

――前例のない挑戦には苦難がつきものですが、松浦さんにとって何が最も大きなハードルとなりましたか。

「きぼう」が打ち上げられたのは2008年ですが、これは私が異動してから10年後のことです。来た当初は「3年後に打ち上げる」と言われていたのに、その3年後がいつまでたってもやって来ません。待ち時間が長いのはきつかったですね。でも、ここまで来たらやめられないし、やり遂げなければならないという強い想いはありました。

 ただ、周囲からはさまざまな雑音が入ります。過去に運用経験を持たない日本人が運用業務をやっているので、NASAから見れば私たちが「ひよっこ」に見えるのでしょう。直接言われたわけではありませんが、そうした声が巡り巡ってJAXAの幹部の耳に入り「お前たちに運用を任せていいのか」と言われたこともありました。

 でも、ほかに代われる人はいません。どれほど頼りなかったとしても、私たちがやるしかない、というモチベーションだけは持ち続けていました。

 2005年を過ぎたところで、3年後という目安が2年、1年と順調に短くなっていきました。それまでは、いろいろな人がいろいろな方向を向いていて、なかなか意見が合いませんでしたが、目標が明確に定まってからは、一気にチームの絆が深まりました。アプローチは多様でも、ゴールさえ決まっていれば走り切ることはできます。目指している方向がぶれなかったので、最終的にチームが一つになれたと思います。

次回更新は、11月28日(金)を予定。