公的セクターで最強の「政策」と
民間セクターで最強の「利益」を統合する

 外務省と国連時代を通じて、約23年間の国家公務員・国際公務員生活を通じて学んだことは、世の中で最も強いものの一つはおそらく「ルール」であろうということだ。国際規範というルールがあり、それが国際条約などの具体的な言葉となり、それが国内法というルールになり、実体政治経済を規定していく。その意味で、「公共政策」というルールは決定的とさえいえる効果を持つ。特に私が専門としていた人道支援や開発支援の世界では、どのような優先順位に従って途上国の予算を割り当てていくのか、大事なのは教育なのか保健なのか、あるいは経済成長なのか、子どもと大人のどちらを優先するのかなど、開発政策はその国の国としての成功のみならず、末端の人々の運命を決定するものでもあった。

 そして、公共政策に紐付けされ、政策を具現化するものが「予算」と呼ばれるお金である。国際開発において端的なものが政府開発援助(ODA)や国際機関拠出金だ。日本は1990年代には実に毎年1兆円以上の税金をODAとして世界の開発に投入してきた。昨今の経済停滞によってその規模は5,000億円を下回っているものの、引き続き日本のODAや国際機関拠出金が世界の途上国の発展にとって大きな役割を果たしていることは間違いがない。私自身、一時期、日本が拠出する「国連人間の安全保障基金」という400億円規模のお金を管理し、現場でのそのインパクトに目を瞠ったものだし、それに関わっている自分が誇らしかったこともある。

 しかし、である。税金を原資とする公的事業の予算は、そのほぼすべてが「使い切り」だ。多くの国家や国連による事業はせいぜい数年にわたる程度のもので、継続的な投資は保証されていない。特に開発援助の世界では、途上国の「オーナーシップ」に任せるというのが“お作法”であるから、2年、3年、あるいは5年をかけて実施した事業は予算を使い切った時点で終了となり、どんなに成功してもその成果は途上国政府に引き渡されることとなる。

 ところが、途上国において開発援助事業の成果が維持され、発展すると考えるのは認識が甘すぎる。それができないから途上国は途上国なのだから。かくして、開発援助事業の多くは、終了した瞬間からその成果が劣化を始める。最悪の場合、事業が終わって数年もしないうちに「元の木阿弥」になってしまう場合さえある。

 国連職員として、あるいは政府職員として常々思っていたことは、「ルール」「政策」「予算」という組み合わせでできることは大きいが、そこでできたことを維持してさらに継続的に大きくするためには、それだけでは決定的に足りないということである。そして、自律と持続と拡大のためにはどうしても必要な、また公共政策の外側の世界では最強の観念がある。それは「利益」という論理だ。

 そしてこればかりは公的な立場から手段として振り回すのはとても難しい。公的機関というのは、その定義上非営利であるべきであり、目的としても手段としても、利益追求してはならないというのがこの世の少なくともいまの道理なのであるから。

 そこで思った。それなら、公的セクターの世界で最強の「政策」という概念と、民間セクターで最強の「利益」という論理を完全に一貫した方法で統合させることができれば、国際開発とグローバル経済の発展の両立という方程式に一つの解を得ることができるのではないか。「公共政策」と「利益」がそれぞれのセクターにおける特殊相対性理論の解であるとすれば、それらを統合する一般相対性理論の解も存在するのではないか。その解のことを私は「共創」と呼ぶことにした。そしてこの「共創」の実現こそが、ここに籍を置くこととなった目的といえる。