顔という夾雑物

 貨幣が交換を媒介するようになり世界は変わった。そこでは、お返しをするために相手の顔を覚えておく必要はない。贈与交換の世界で必要だった交換相手の顔は、貨幣によってその必要性が失われた。貨幣にせよ、法にせよ、言語にせよ、媒介とは結びつけるだけではなく、直接の関係を断つものでもある。

「身分が違っても、民族が違っても性別が違っても、好き嫌いどちらでも交換できる社会になった」

 便利なものの浸透は早い。「開化」の道は一方通行である。もはや酋長は見栄を張る必要もなく、また、それ自体に儀式性を持つ金銀を交換することも、もはや二度と訪れまい。ただ、もし開化の結果として失われたものが本質的なものならば、人はそれを欲することを止めることはできない。それを与える企業があれば、その見返りは大きい。先生はこう仰った。

「人間は本来交換する存在であるという交換の持つ本来の意味を、現代にかき立てる、そういう企業がある程度成功し始めているのかもしれない」

 先生は「夾雑物(きょうざつぶつ)を入れる」という言い方をされた。抽象化がすすむ交換の場に本来の価値を蘇らせること、その1つが「顔」を取り入れることである。フェイスブックはその社名と非匿名性において、まず先生が触れられた例であった。

「名前がフェイスブックだから、顔を見せるっていう意味なんですね。顔を見せることを敢えてやることによって、ある面で貨幣交換の抽象性に反していることをやっている。抽象性がない、匿名ではないということを出すことによって、何か新しい付加価値を生もうとしている」

 インターネットが私たちの生活を覆って久しい。もしその現前した世界が抽象的で、無機的であるならば、その違和感は腹に蓄積する。ロボットが巷間に溢れれば、そこに目と鼻を追加し、人間味を求めるのは性である。フェイスブックはサービス利用者の顔を、抽象的なインターネットの世界に取り入れ、抽象的な世界への違和感を解消した。ただ、より重要な顔の話が残っている。それは交換相手としての、企業の顔である。