会社を定義する2つの概念

「会社の定義には、法人擬制説と法人実在説という2つの概念があります」と平野氏は述べられました。


 法人擬制説は、会社というのは概念的な存在であって契約とリソースの集合体のことを指しており、所有者である株主の付託を受けた経営者が経営している、という概念です。対して法人実在説は、会社とは意思をもった有機的な人間集団であり、代表取締役が会社利益を代表して経営している、という概念です。前者は会社を株主の資産と見なす欧米的な定義、後者は会社を共同体と捉える日本的な定義とも言えます。
 会社法では株式会社について、明確に株主主権が謳われており、法律的にも法人擬制説に基づいて定義されています。つまり株主価値を毀損しないことが、経営者に課せられた“fiduciary duties”(受託者責任)であり、会社経営の第一義なのです。それゆえ法人擬制説が強いアメリカ市場において、エンロンは不正経理によって株主価値を毀損したため、株主の支持を失い、破綻に至ったのでした。
 一方で、日本市場では人間優先の法人実在説が強いため、オリンパス事件においても、事業の存続と雇用を守ることが優先され、実際に主要株主でもある銀行が主導して軟着陸させました。こうした曖昧な日本的決着のつけ方は欧米では理解されないスタイルです。ましてや不正をした企業について、銀行が保証支援を行うことなど信じがたいことなのです。しかしながら、そうすることで株主や従業員への被害は最小限に抑えられたことも事実です。
 エンロンでは株主は大損害を被り、従業員も多くが職を失いました。オリンパスでは、株主は確かに損害を被りましたが、現在の株価は元の水準に戻っています。従業員の雇用も守られました。ウッドフォード氏が委任状争奪戦で撤退したのも、こうした「日本流」を容認する日本の機関投資家が反応しなかったことが原因でした。
 法人擬制説においては株主による監視が強力に働き、ガバナンスが担保されていますが、一旦その枠を外れると甚大な損害が発生し得ます。法人実在説では同一性が強くなることでより不透明な経営に陥りやすくなりますが、被害を最小限に押し留められます。はたしてどちらの定義が正しいのでしょうか。

 

思考停止に陥らない企業風土をつくることが経営者の使命である

 平野氏は「もはや二元論で片づけることはできません。相反する概念の両方の良い面を追求し、実行することが経営者の責務です」と結論づけました。

 ウッドフォード氏のアプローチは、正しかったかもしれませんが、方法としては稚拙でした。しかしながら菊川氏の行っていた不正も是正されるべきものでした。最近の食品偽装問題においても同様です。数年前に起きた食肉偽装問題以降、消費者の許容基準が厳しくなっていることに対する感度が鈍かったために、今また同じような問題を繰り返しています。
 投資家は投下資本が消失するリスクを負った上で投資しており、会社はそのリスクマネーを最大限に活用して新たな価値を生み出すことが求められています。オリンパスは確かに運用に失敗して大きな損失を出しました。そのこと自体は経営責任を問われることにもなりますが、まだ市場の理解は得られ易いものです。しかしそれを不正経理によって隠ぺいしたことで、一切の合理性は失われ、却って経営を危うくすることになりました。

 GEの元CEOであるジャック・ウェルチは「経営において一番大事なのは人である」と言いました。彼は「企業には優秀な人が20%、解雇すべき人も10%いるが、一番大事にすべきなのは残りの70%(“Vital “70”)なのだ」という考えなのです。日本では、この70%の中にも個人で大きな問題意識を持っている人は多くいます。しかし、集団に入ってしまうと組織の論理に埋もれて個人の良心は減退し、思考停止に陥ってしまうのです。GEが業績よりも「GEバリュー」を重視しているのは、そうした問題への対処です。
 オリンパスが第三者委員会の調査報告書で「経営の中心部が腐っており、その周辺部も汚染され、悪い意味でのサラリーマン根性の集大成というべき状態であった」と指摘されていたことを教訓にしなければなりません。組織の論理に個人の良心が負けないよう、経営者には思考停止にならない企業風土をつくることが求められているのです。

 日本企業という身近なケーススタディを取り上げ、丁寧な解説をくださいました平野様、ならびにご参加いただいた皆様に深く御礼申し上げます。


 次回は12/18(水)に瀧本哲史氏(京都大学客員准教授)を講師にお招きして、勉強会を開催予定です。参加希望の方は、奮ってご応募ください。ご応募はこちらから。