これは確かに、ぼくたちが会社などで時々見かける光景でもある。頭がいい人は孤立している。バカを相手にするのは鬱陶しいと思っているからだ。そして組織論の研究でも、人は質問をするときに、本当に知っていそうな人には尋ねないのがわかっている。相手のほうが自分より知識/能力があるのを認めるのが悔しいからだ。自分と同じくらいの水準の人に尋ねて、「いやぁ、お互いわかりませんなぁ」と確認しあうだけで、実質的に問題は何も解決していない。頭の悪い能力の低い人たちは群れ、頭のいい能力の高い人は孤立してしまう――これまた、会社でよく見かける光景ではある。

山形 浩生
(やまがた・ひろお)
1964年生まれ。東京大学工学系研究科都市工学科修士課程修了。マサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。大手調査会社に勤務のかたわら、科学、文化、経済からコンピュータまで、広範な分野での翻訳と執筆活動を行う。著書に『新教養としてのパソコン入門』(アスキー新書)、『訳者解説』(バジリコ)、『新教養主義宣言』『要するに』(ともに河出文庫)など。翻訳書に『協力がつくる社会』(NTT出版)、『ヤル気の科学』(文芸春秋)、『貧乏人の経済学』(みすず書房)、『アニマルスピリット』(東洋経済新報社)など多数。

 でも、孤立した頭のいい人が仕事で常に優秀とは限らないのもよく見かける。チーム作業になじまず、浮いてしまうことも多い。そして群れたがる少し頭の悪い人たちのほうは、つまり社会を作りやすいということだ。そのほうが、平均すれば孤立した天才たちよりも優秀な結果をもたらす――まさに集合知を活用するために、世の人々は少し要領が悪く、物忘れが激しく、おっちょこちょいで、相互に尻ぬぐいせざるを得ないような存在となっているというわけだ。そうした欠点を通じて助け合わざるを得ないために、自然と集合知が活用される! 集合知という全体としての大きな利益を得るために、ぼくたち個人の賢さがある意味で犠牲になっているのだ。

 もちろん、これが完全に機能するわけではない。さっき述べたように、徒党を組んでもその人々が本当に多様性を持ち集合知として活きるような集団になっているかどうかはまた別の問題で、往々にして(特に会社の派閥などでは)似たもの同士が群れているだけで、組織内のコミュニケーションコストのおかげでかえって効率が下がり、集合知どころか衆愚に堕している例はいくらでもある。それでも、そうした集合知の可能性だけでも進化的には有利だったということだ。

 ちなみに、この理論は頭のよさだけではなく、顔のよさについても触れている。美男美女のほうが相手を見つけやすく、子孫を残しやすいのは論をまたない。では、なぜ何万年の進化の中で、ぼくたちはみんな超絶美男美女揃いになっていないのか? 

 これまた、美男美女は相手を捕まえるのに苦労しないので、進歩がないからだ。そうでない人は、何とか相手をつかまえようとしてあれこれ苦労し、別の部分を発達させるよう努力する――それが社会を進化させ、人類を発展させてきたのではないか、とハンフリーは言う。美男美女ではないぼくたちの大多数にとっては、もてない自分たちの悪あがきが人類進歩に貢献してきたというわけで、多少のなぐさめにはなる……かな? 社会発展のために、個々人の容貌が少し犠牲になる――人類の進化史は、こうした社会形成発展によるメリットを得るために個々人の能力が多少引き下げられた事例だらけなのだ。この理論の含意は実にいろいろあって楽しいので、このハンフリー『獲得と喪失』(紀伊國屋書店)は是非お読みあれ。だが、これはちょっと余談だ。