集合知に必要な「多くの目玉」とは

 そしてこれはウィキペディアの課題でもある。本国版では、それなりに重要な項目(政治とか思想とか経済とか科学理論とか)について、まじめな人々が議論して記述を改善する。最も編集回数が多いのはそうした項目となる。ところが日本では、AV女優とアイドルとアニメ関連ネタばかりが狂ったように更新されるという。粘着質のおたくが、その項目と多少なりともつながりを持とうとして暇にあかせてあれこれ編集しているわけだ。そしてそれ以外の部分は層が薄く、偏った部分もまだ多い。

 前回述べたフリーソフトがなぜ成立するか、という説明として、「目玉の数が多ければどんなバグも浅い」というものがある。多様な人が見れば、一人では見落としがちなバグやエラーもすぐ見つかる、という意味だ。だが、その十分な目玉が確保できなければ、フリーソフト――ひいてはウィキペディアも含めた集合知は成立しえない。そして、この十分な目玉、というのが必ずしも量的な話だけではないことに注意が必要だ。

 これは集合知の可能性として一時もてはやされた、ツイッターを筆頭とするソーシャルメディアによるジャーナリズムの可能性についてもいえる。たとえばいまや、かつての明るい様相を完全に失ってしまったジャズミン動乱/アラブの春の頃にこうした可能性がうたわれていた。そうした動乱の現場から携帯電話の写真を通じてツイッターで伝えられる様子は、確かにインパクトがあった。特にイランでの状況は、既存メディアでは当初ほとんど報道されなかったのに対し、ツイッターやYouTubeなどのネットメディアが現地の報道に大きな役割を果たした。これだけなら、既存メディアに対するネットの勝利だ。

 だが批判を受けた既存マスコミはすぐに報道を改善し、きちんとした報道を開始した。一方のネットは、すぐに当初の先鋭性を失って、便乗して立場表明してみせたいだけのコピペ馬鹿の泥沼と化し、まともな情報収集に役にはまったくたたなくなった。ツイートする人は多くても、同じ一次情報に便乗しているだけでは、単なるコピー反復にすぎない。数が多くても、それは本当の意味では目玉が増えたわけではない。むしろ、情報をチェックして他のソースともある程度はつきあわせるといったプロセスを持つ既存ジャーナリズムのほうが、数は少なくても目玉の質の上では勝っていた。多少なりとも多様な目玉が情報を精査するだけの仕組みを持っていたということだ。

 

 

【連載バックナンバー】
第1回 みんなの力で英語のヒアリング?日常の中の集合知
第2回 集合知の理論:コースの天井とフリーソフト