集合知の紛争解決

 たとえば不肖このぼくに関する項目も、見ているといろいろな改訂を経てだんだん妥当なところに収束する。ときには山形浩生を嫌う人があれこれ否定的な記述を増やし、支持者がそれを改め、それが続くと項目が妙に長くなってしまったのを、こんどは誰かが刈り込んで、といったプロセスが、数年がかりで展開される。ある一時点を取ると、あそこが不満、これはちがう、これを書くならあれも入れてほしいのに、と当事者としては文句もつけたくなる。でも時間を追って見ていると、それが明らかにだんだん穏当なほうに改善されるのがわかる。

 また紛争解決もある程度は機能する。たとえば脳科学者という肩書きをよく使うタレントについての項目があった。ところがその当人は、自分がタレントなどではなく科学者だと自負しており、その記述に自ら文句をつけた。執筆者たちはあれこれ妥協案を考えたが(その議論の過程も残っている)最終的にはタレントかどうかを議論するよりも、むしろこの人物の実際に活動を淡々と記述しようということになった。それを見れば、タレントと敢えて書かなくても、活動実態が科学者よりはタレントであることが明確にわかる。きわめてうまい落としどころで、野次馬としても非常に感心させられた。

 しかし、これが機能する条件がある。それは、ある程度広い範囲の人がそのプロセスに参加して、まともな落としどころを探す、ということだ。たとえば山形浩生の項目執筆に参加している人がみんな山形に恨みを持つ人々だったら、あることないこと書かれたとんでもない代物になり果てることだろう。実際、一部の項目はそうなっている(またその逆もあって、信者による異様な翼賛になっていたり、明らかに当人が自分で自分に都合のいいことばかり書いている項目もある)。それを防ぐような広い範囲の参加者を確保するためには、やはり参加者の動機が問題になってくる。