集合知への参加動機とは?

 さて青空文庫のボランティアたちはなぜわざわざ、一文の得にもならないのに面倒なテキストを入力したり、校正したりするのか? 前回はフリーソフトについて、自分が貢献することでそのソフト自体の利用価値が高まり、それがそのフリーソフトを使う自分にとってメリットとなる、という形での貢献メリットを示した。だが、青空文庫の場合には、そうしたメリットはない。自分が入力・校正したからといって、坪内逍遙の小説が改善されるわけではない。もちろん一銭たりとももらえるわけではない。あるいはこのぼくも含め、各種の翻訳を勝手に貢献している人もいる。その動機はなんだろうか?

 これについての系統的な研究があるのかどうか、ぼくは知らない。またその動機は人によっていろいろだろう。ただ個人的に類似のプロジェクトをやったり、フリーの文書をたくさん公開している身として類推すると、自分の好きな文書、興味ある文書と何らかのつながりができるのがうれしい、というのがあるのだろう。だれでも使える形で、フリーで公開されるため、入力した文書に対して何か権利が発生するわけではない。入力者、校正者として名前が出るというだけだ。でも、また経済学系の文書を(勝手に)翻訳しているサイトを見ると、自分の勉強として各種文書を翻訳しつつ、他人にその理解の正しさを見てもらい、お互いにそれを続けることで自分の勉強に役立てたいという動機があるようだ。

 似たような動機が発揮されるのは、集合知の代表例として挙げられることの多いウィキペディアだ。すでに説明の必要もないだろう。完全にボランティアの活動で作られる世界最大規模の百科事典だ。当初は絶対に不可能と言われ、まともなものになるはずがないと誰しも思ったものが、いまやそこそこまともなものとして成立している。

 それがどのくらいまともかについては、すでにいろいろ文献もある。そして、そこにある記述のまとめ方についての合意や、紛争が起きたときの解決手段――前回述べたコースの天井に関わる内部コミュニケーションの問題――についてもすでにいろいろ書かれている。ウィキペディアの運営陣は、基本的な大方針だけ定める。その先の細かい実際の解決は、参加者たちが自らの話し合いで決める。そして、これがそこそこうまく機能しているからこそウィキペディアはいまも成立している。