ちなみに、これが作用しているのは集合知の分野だけではない。企業や行政組織もいまやどんどん拡大している。さっき挙げたパーキンソンは、組織の肥大をある種の組織内利権の力学としておもしろおかしく描き出しているけれど、でもこの拡大もまたコミュニケーションの改善の結果でしかない。早い話が、東インド会社などごく一部の例外を除けば、電信電話がない時代には全国、全世界をまたにかけるような大企業というものは成立し得なかった。

 ただし、さっきコースの業績として、企業は取引費用削減のために存在するという知見を挙げたけれど、これがコミュニケーションの発達により低下すれば、逆に大企業が陳腐化する側面も出てくることになる。規模の経済だけが競争力ではないからだ。インターネットなどコミュニケーションの発達が、こうした企業規模の正反対の動きにどちらも貢献するというのはちょっとおもしろいことなんだが、世の中の各種企業論はしばしばこの片方しか見ないために一般性のない議論に陥っていると思う。が、これはちょっと話が本筋からそれた。

フリーソフト:集合知によるソフト開発

 さて、そうしたネットによる集合知の活用例としておそらく最も初期に出てきたのは、フリーソフト、あるいはオープンソースソフトの世界だろう。最も有名なものは、ウィンドウズと張り合えるオペレーティングシステムとして名高いリナックスだが、他にもいろいろある。特にインターネットの基幹部分を支える多くのソフトは、このフリーソフト/オープンソースとなる。

 これはウィンドウズやMSオフィスのような商用ソフトとちがって、だれでも自由に(無料で)コピーして使えるものだが、それ以上にそのソフトの設計図とも言うべきソースコードが公開されていて、だれでもそれを改変してかまわない。ソフトウェアには、通常はまちがいがたくさんある。それを見つけたら、自分でなおせる。

 そもそも、なぜそんなものが公開されているのか? 各種ソフトウェア企業は、それを高いお金をとって売るし、また著作権などの知的財産権を使って、他人がそれを勝手に改変しないよう必死で守る。それを無料で公開するのはなぜ?

 さらに多くの人は、自分が行った修正を公開し、するとそれが本体に取り込まれる。あるいは、人によっては新しい機能を追加したりする。それがさらに取り込まれてゆく。多くの人がそうやってまちがいを見つけ、修正を行い、機能を追加したり改良を加えたりすることで、ソフトはますます改良される――まさに集合知の活用により製品が作られるという仕組みだ。そして、そうした人々は、別にお金をもらってやっているわけではない。自発的にバグを直し、改良を加え、それを公開している。

 これが話題になり始めた当初――特にリナックスが台頭してきた頃は、そもそもそんなことがあり得るという点自体が疑問視された。別に自分がまちがいを見つけたからといって、それを人に教える義理はないじゃないか。機能を改良したら、自分でそれを売ればいいじゃないか。なぜ多くの人は、自分のやった成果をわざわざ無料で提供しようとするんだろうか? 世の中にそういう物好きが多少はいるかもしれない。あるいは、だれしも気まぐれでたまにそういうことをする気分になるかもしれない。本でも、ときどき読者カードで誤植の指摘をしてくれる人はいる。でも、それが大規模で高度なソフト開発を可能にするくらい大量に、ある程度の品質を保った形で出てくるわけがない、というのが一般的な見方だった。

 が、現にリナックスは成立しており、みんながこぞって協力していた。なぜそれが可能なのかについて、愛他主義とか将来プログラマとして雇われるための宣伝だとか、きわめてトンチンカンな分析が社会学者や経済学者たちにより次々に出されたが、いずれもピントはずれもいいところ。その中で、この現象について明確な指針を与えたのが、自分もそうしたフリーソフトの開発者であるエリック・レイモンドの書いた「伽藍とバザール」「ノウアスフィアの開墾」「魔法のおなべ」というネット上の論文だった。そしてこれは、集合知の意義と成立条件についても大きな示唆を与えるものとなっている。