集合知 VS 衆愚

 さて、いま挙げたような例は別に珍しいものではないと思う。だれしも、多少は思い当たるはずだ。ならば(技術的な変化はあっても)なぜ集合知が今さらのように注目されるのか?

 その理由の1つは、人が集まって必ず文殊の知恵になるとは限らないからだ。それどころか多くの場合、逆の事態が起こりかねない。それは衆愚だ。賢いはずの人々が集まるととんでもなく愚かな決断を下し、事態を悪化させ、かえってダメになってしまう例はたくさん見かける。多くの人が勤め先などの会議でしばしば感じることだろうし、また各種の役所や議会などの様子を見ていても、むしろ集団が悪い方に機能する例のほうが多いようすら思える。それはどこがちがうのか? そうしたマイナス面を乗り越えるためには何が必要なのか? 世の集合知に関する文献を見ていると、この部分についてあまり触れず、インターネットで広く意見を集められるようになったから集合知が栄える、といった単純な見方に堕しているものも多い。だが、集団のマイナス面を見て、その克服法を考えないと、集合知の活用も困難になるはずだ。

 実は上の調査団の話の中でも、ぼくが見た限りでの知識の集約が起こる条件、起こらない条件について少し触れた。あと3回続くはずの連載の中では、他の例からこうした条件についてまとめつつ、集合知の可能性について考えて見たい。

 

<注1>
 もちろん、アイデアを出す方面でも集合知は発揮される。数世紀前のドイツのある天才数学者は、当時としては革新的な様々な数学の証明や考え方を次々に考案したが、その3分の2くらいはお蔵入りにしておいて、だれかが後で同じ証明を発表したら「あ、それはぼくが5年前に考案したものですねー」と嫌がらせをして喜んでいたそうだ。だがその死後1世紀くらいたって、その意地悪用のノートが発見されたのだけれど、その中の主要なものはすでにその1世紀の間で、多くの下々のそれほど天才でない人々が、なんだかんだで、すでに証明し発展させていたという。天才はすごいが、凡人たちでも集まれば(そして少し時間をかければ)それに匹敵する成果は出せるらしい。が、こちらのほうは今回の連載ではあまり深入りできない……かな?