三人寄れば……

 基本的に、集合知そのものは昔から活用されているものだ。そして、おそらく明示的な形ではなくても、多くの人が日常的に利用しているものでもある。

 たとえば、ぼくは開発援助の仕事で、しばしばインドやアフリカに大人数の調査団に混じってでかける。ご存じの方もいるだろうが、インド英語やアフリカ英語はかなりクセが強く、またそもそも英語が苦手な相手もしばしばいる。そしてこちら日本人チームの大半も、必ずしも英語が完璧なわけではない。ぼくも自分の担当者とのやりとりが必要なので、いつも英語苦手チームを助けるわけにもいかない。するとどうなるか?

 先方は、こちらの質問票にしたがって1つずつ、まったく手加減なしのインド英語やアフリカ英語で返事を(かなり長々と)よこす。日本側の英語苦手チームは、もちろんすぐにはそれがほとんど聞き取れない。だが、そこでちょっとおもしろいことが起こる。

 まず一同は黙って顔を見合わせる。目で「おまえ、わかった?」「いや、全然」と語り合っているのがこちらからもわかる。が……そこからが興味深い。こちらの日本人調査団の中で、「おい、いまのはつまり、イエスってことか?」「いえ、でもあそこの変電所はちがうとも言っていて……」「基本的に構造が少しちがうらしいですねえ」「でも電圧のところでディフィカルトとか言ってたよな」「え、それってディフェクティブで、何か故障してるとかだったような……」といった議論がだんだん展開されていくのだ。そして、少しずつ「向こうはつまりこういうことを言ったらしい」というコンセンサスがゆっくりとできあがってくる。あそことここはつじつまが合わない、といった補正もだんだん加わって、正しい意味に収束していくのだ。

 そして、五分後くらいにできあがったコンセンサスは、結構あっている。先方の言ったことの8割くらいは押さえられている。ぼくは、初めてこれを見てすごく驚いた。1人1人はあまりわかっていないのに、集団としては理解できるなどということがあり得るのか!

 むろん、それが起こる場合と起こらない場合がある。1人の声がでかくて、みんなの言うことに耳を貸さなかったり、あるいはチーム内の力関係でみんながあまり意見をいわなかったりすると、話は止まってしまうし、もちろん最初っから「わかんねー!」と言って投げ出す人が多ければそこでおしまい。でも、それなりに対等な人々がそこそこ自由に発言できると、こういうちょっとした集合知が起きる。ついでに、この事例だとある程度は技術的な内容なので、相手とこちらとに多少なりとも共通の基盤があることも大きい。話がまったくかみ合わないことは滅多にない。変電所だろうと橋の設計だろうと、図面や数字もあるし出てくる話のバリエーションも限られる。日本的な常識からすればあり得ないこともしょっちゅう出てくるが、それでも物理的に可能な範囲は自ずと決まってくる。ベースを共有しつつも少しずつちがう人々が集まることで、お互いの不足分を補うような形での知識の収束が行われる――これが集合知だ。

 三人寄れば文殊の知恵、という。少なくともぼくの理解では、これは通常はアイデアを出すほうの話だと思われているのではないか。だが、正確な理解を得る、というような分野でもそれは発揮される。そして、それがもっと大規模に実現できるようになってきた、というのが現在の集合知への関心の高まりをもたらしている(注1)。