米国の数字至上主義

 人間の価値については別として、果たして株主価値は本当の価値を生むのだろうか。まず、アメリカ経済を考えてみよう。著名なごく少数の1%のアメリカ人が信じがたいほど裕福になる一方、その他の人々の所得は伸び悩んでいる。そして同じように、米国経済も停滞している。

 米国経済は高い生産性で知られている。もし製造会社の生産性を本気で上げようとするならば、工場で働く従業員を全員解雇し、在庫から顧客の注文を出荷すればよい。これで統計上は、非常に高い生産性として記録されるだろう――もちろん、在庫を切らすまでの話であるが。そして米国経済は、いま在庫を切らしつつある。もはや労働者や納入業者の力を借りて成長することはできない。短期的に株主価値を追い求めている。

 次に、米国社会を見てみよう。受刑率、肥満率、不法薬物の使用、医療費(その医療成果は平均的なものであるが)などは、世界を見渡してみても最悪の水準である。大学進学率や社会的流動性は長らくアメリカが誇るものであったが、いまや他の多くの先進国の後塵を拝している。なかでも最悪なのは、合法的な賄賂の形をとって行われる政治家の汚職であり、規制のない政治献金や政治広告である。

 これらの事柄と、アメリカでの株主価値の興隆は関係あるのだろうか。もちろん、ある。1989年に始まった東欧諸国の共産主義体制の崩壊は、とくにアメリカでは「資本主義の勝利」とされてきた。だが、そんなことは、まったくない。要は、バランスの勝利であった。

 共産主義体制が崩壊したのは、公共部門(public sector)だけに重点を置き、完全に均衡を失っていたからだ。翻って当時の先進国の多くは民間部門(private sector)、そしていわゆる市民社会など「多元的」と称される部門(plural sector)の間でバランスが取れていたのだ。

 だが、資本主義の勝利という作り話とともに経済的な力が、社会や政治の力に勝るようになった。とくにアメリカでは経済偏重が進み、着実に不均衡をきたしている。株主価値はこの不均衡を象徴する要因であり、米国社会に与える影響は破壊的なものであることが明らかになりつつある。

(続く)