顧客の好みについてのデータはシステムに蓄積されていくので、リピーターに対してはより効果的なサービスが可能になる。たとえばこういうことだ。ある顧客が家族旅行でハワイのリッツ・カールトンに宿泊した際にホテル内のレストランで食事をした。その顧客はたまたま薦められたワインがいたく気に入った様子。これに気づいたソムリエがこの好みの情報をコーディネーターに伝え、システムに入力。数年後、同じ人物が東京のリッツに宿泊し、友人と食事をしようとレストランに行く。するとウェイターが「お客様、以前お客様がハワイでとてもお好きだとおっしゃっていたワイン、運よくちょうど同じものがご用意できるのですが、いかがなさいますか…」。自分でも半ば忘れていた顧客は驚く。で、喜んで同じワインをオーダー、好みのワインで食事をしながらハワイの思い出話にも花が咲く、という成り行きだ。

 ことほど左様にITを使ったCRMシステムはリッツの差別化の武器としてきわめて重要な役割を果たしている。ただし、である。それ以上に大切なのはことの順番だ。こうしたITを使うずっと以前からリッツはアンティシペーションに基づく個別化されたサービスに取り組んでいたということに注意が必要だ。

 ITが使えるようになる前のリッツのスタッフはさぞかし大変だっただろう。僕の推測だが、顧客の好みを記したメモをコーディネーターが手書きで集約し、コピーをとる。それをラインナップで配布する。途中で何かがあって修正するのも一苦労だ。スタッフ間のコミュニケーションは走り回って直接口頭で伝えるか、せいぜい電話でのやりとりになる。

 そこにCRMのITが導入される。同じことがすっと効率的にできるようになる。スタッフはこれ幸いと大喜びでシステムを使っただろう。ITシステムは乾いた砂に水を撒くように仕事の現場に浸透したはずだ。

 ITを飛び道具のように見なして飛びつく会社ではことの順番が逆になる。日々の仕事でやっていること、起きていることとは何の脈絡もなく、「ITで構造改革!」というようなフワフワしたかけ声が気になる。ちょうどいいタイミングでITベンダーがCIOのオフィスのドアをノック。「これからはITを駆使したCRMが経営の武器になります。システムを導入すればこんなことが可能になります。先進企業のベスト・プラクティスをご紹介しますと……」と、立て板に水の美しいプレゼンテーションが出てくる。その気になったCIOはITシステム導入を経営会議にかける。話を聞いた社長は「IT革命に遅れてはならじ。うちもさっそく導入しよう」。

 で、CRMシステムが全社一斉に導入されるわけだが、現場にしてみれば、意味も目的も分からない作業が増えるばかりで、迷惑この上ない話にしかみえない。だから頭を使わないし、手をかけない。顧客情報は自動的にどんどん蓄積されていくけれども、せっかくのデータはほこりをかぶったまま誰も実際の仕事に使わず放置。振り返ってみれば「ありゃ、なんだったのか……」という話になる。

 そうこうしているうちに、ちょうどいいタイミングで「いや、お気持ちはよーく分かります。でも、ご心配なく。問題解決はどうぞお任せください。実は『ビッグデータ』という最新の武器がありましてね、先端的な成功事例をご紹介しますと……」というプレゼンが飛び込んできて、話は振り出しに戻る(以下延々とループ)。