ホテル業界のリッツ・カールトンはITを上手に使ったCRM(Customer Relationship Management:顧客との長期的なリレーションの管理)の事例として有名だ。リッツ・カールトンの差別化はそれぞれの顧客ごとに「個別化されたサービス」にある。

 ただし、ホテル業界のラグジュアリー・セグメントで商売をしている競合他社も、多かれ少なかれ「個別化されたサービス」に取り組んでいる。リッツの差別化の正体は、個別化したサービスを提供するに至る前のプロセスにある。一般的なサービスの個別化が単なる「カスタマイゼーション」だとすれば、リッツのそれは「アンティシペーション」(慮[おもんぱか]り)に立脚している。

 個別化されたサービスを提供しようとすると、まずその顧客に固有のニーズを知らなければならない。たとえば、もっともベタなやり方としては、チェックインのときに「明朝の新聞はそれをお持ちしましょうか」とか「お好みの枕をご用意しますが、固めと柔らかめ、どちらがよろしいですか」とか尋ねるというのがある。これに対して、顧客が自分の好みや要望を明示的にリクエストせずとも、その顧客に固有の潜在的なニーズをリッツの側で慮り、それを即座に具体的なサービスに変換して提供する。

 たとえば、こういう話だ。ある夫婦がリッツのホテルに車で入ってきてチェックインする。そのときに車のドアを開け、荷物を運ぶのを手伝ったベルボーイが夫婦の会話から、彼らが結婚記念日のお祝いの旅行でリッツに来たということを知る。ベルボーイはすぐに客室係にこのことを連絡する。連絡を受けた客室係はお祝いのシャンペンをホテルからのプレゼントとして客室にセットする。

 ところが、チェックインのときにこの夫婦と会話をしたレセプション・カウンターのスタッフが、夫人が妊娠中であることを知る。妊婦にアルコールを提供するのはよろしくない。そこでこのスタッフはその旨を客室係に連絡、それを受けた部屋の担当者はシャンペンを引っこめ、夫婦が部屋に入るまでに、その「新しいご家族の健やかな誕生をお祈りしております」といったメッセージ・カードを添えた花と交換する。夫婦が部屋に入り、夫人がカードを見つける。で、奥さまが「まあ、うれしい!」となる。

 これがリッツのいうアンティシペーションだ。この話のポイントは顧客から具体的なニーズが表明される前に、リッツのスタッフがそれを慮り、創意工夫で具体的なサービスにして提供しているということだ。

 このようなアンティシペーションに基づいて個別化したサービスを提供する上で、ITを駆使したCRMシステムがものをいう。客室係やレセプションだけでなく、ベルボーイやドアマン、レストランのスタッフなどなど、顧客サービスのフロントラインに立つあらゆる部門のスタッフが顧客の(多分に潜在的な)ニーズに注意を投入する。全員が「ゲスト・プリファレンス・パッド」という顧客の好みを書き留めておくメモを常備しており、何かに気づくとすぐにそれに書き込んで、顧客のニーズ情報のハブになっているコーディネーターに回す。コーディネーターは情報をシステムに入力する。顧客がそのホテルに滞在している間は、フロントラインのスタッフ全員がその情報にアクセスできる。それだけでなく、客室サービスにあたるスタッフが、シフトごとに全員で集まる「ラインナップ」と呼ばれるミーティングで、それぞれの顧客の好みやニーズ、注意しなければいけない点をフェイス・トゥー・フェイスで確認し、共有する。それに基づいてさまざまな局面でのサービスが個別化されていく。