ようするに、構造改革は「構造改革」を待たないのである。他の人はどうでもいい。いま目の前にある自分にとってリアルでタフな問題を解決しようとすれば、自然とこれまでとは違ったことをする。そういう人は構造を云々するほど暇ではない。毎日のリアルな仕事の文脈で、仕事の要請からくる新しい動きが、最初はあくまでも局所的に始まる。それが効果を発揮すると、同じことをする人が出てくる。勢いがついてきて、会社全体に広まる。そうなってはじめて、もはや普通のこととして定着している動きが制度化され、新しい「構造」として定着する。改革者からすれば、気づいたときには勝手に構造が変っていた、という話だ。はじめから「構造改革!」と構えてしまえば、その瞬間に構造改革の実現は遠のいてしまう。

 考えてみれば、構造改革(とそれに踏み出した改革者)のは「第1次世界大戦」みたいなものだ。時が過ぎてはじめてそれとして認識できるものである。100歳を超えた祖母と話していて気づいたのだが、第1次世界大戦の後しばらくは、だれもこの戦争を「第1次世界大戦」とは言わなかった。それはあくまでも「世界大戦」であり「欧州大戦」だった。その後「第2次世界大戦」が起こったからこそ、遡及的に「第1次世界大戦」という言葉が定着したわけである。当たり前の話だが。

「構造改革が急務です!構造改革に集中して取り組みます!」という人を僕はあまり信用しない。それは1914年の時点でいきなり「第1次世界大戦に参戦!」というようなものだ。「構造改革者(自称)」に構造改革はできない。ましてや「物事がうまくいかないのは、構造的な問題があるからだ。先に構造改革をしてもらわないと……」という手合い(これが実に多い)に至っては、話にならない。問題外の外(?)である。

 自分の領分、自分の目の前にある現実の仕事でより良い成果を出そうとしている人のみが、結果的に構造を改革しうる。それにしても、彼らの意図は決して「構造改革」などにはない。物騒な喩えだが、彼らはあくまでも「欧州大戦」を戦っているのである。

 

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