特攻の父:大西瀧治郎

 太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官で、日本を代表する提督として知られる山本五十六と共に、早くから大艦巨砲を排して航空機の重要性を説いたのが大西瀧治郎(たきじろう・1891~1945)です。

 兵庫県氷上郡芦田村(現兵庫県丹波市)生まれの大西は、日露戦争の「軍神」広瀬に憧れて海軍を志し、海軍兵学校を経て海軍に入り、イギリスへ留学後、海軍航空隊の養成に努めます。終戦まで航空界に身を置いたことから、「海軍航空育ての親」といわれました。

 1943年(昭和18)、海軍中将に進級した大西は、翌年10月、第一航空艦隊司令長官としてアメリカ軍侵攻直後のフィリピン島へ着任します。従来の航空攻撃では、もはや敵軍艦に打撃を与えられないと判断した大西は、特攻戦法を採用し、10月25日、アメリカ空母に特攻隊を突入させました。以後これが海軍の主攻撃法となったことから、大西は「特攻の父」と呼ばれます。

 それが事実であるならば、悲惨な「特攻隊」を生み出しただけの愚将という評価になるでしょうが、真実は違うようです。半藤一利氏は、特攻隊作戦が開始された前後の史実を詳細に分析し、「大西さんは、発案者でも何でもなく、むしろ海軍中央の総意の実行者だったのです」(『昭和史』平凡社)と断じています。大西を「特攻の父」として定着させることで、大西一人に責任を負わせるという海軍の責任逃れであったというわけです。

 それでも、大西が「特攻の父」と称されたことを否定することはできません。確かに「特攻」は、功績というより、むしろ反省すべき史実です。この点、これまで紹介した「父」たちに付与された称号とは意味が異なります。しかし、我々は、「特攻の父」のような称号が持つ意味を考える必要があると思うのです。なぜならこの称号は、戦争の反省のみならず、みずからの職責を考えさせるものだからです。

 半藤氏が「(大西さんは)総意の実行者だった」と述べているように、大西が特攻隊を出撃させ、数多くの若い生命を奪った司令官であったことは事実です。そのことは、大西自身がよく理解していました。

 1945年(昭20)8月16日、終戦日の翌日に大西は割腹自決を図りました。遺書には、次のように書かれていました。

「特攻隊の英霊に日(もう)す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華(さんげ)せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

 次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副(そ)い奉(たてまつ)り、自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿(なか)れ。諸子は国の宝なり。平時に処し、猶(なお)克(よ)く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ」
(つづく)

「海軍の父」10人の墓所
勝海舟墓所(洗足池公園内・東京都大田区南千束)
山本権兵衛墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
赤松則良墓所(吉祥寺・東京都文京区本駒込)
上田寅吉墓所(大行寺・静岡県沼津市戸田)
伊東祐亨墓所(海晏寺・東京都品川区南品川)
秋山真之墓所(鎌倉霊園・神奈川県鎌倉市十二所)
有馬良橘墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
平賀譲墓所(多磨霊園・東京都府中市多磨町)
加藤友三郎墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
大西瀧治郎墓所(総持寺・神奈川県横浜市鶴見区鶴見)
 
※山本権兵衛、伊東祐亨、加藤友三郎、およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ
勝海舟写真出所:The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史