八八艦隊の編成と軍縮

 日露戦争後、海軍は大艦巨砲主義の道を歩み、アメリカを仮想敵国とする戦艦八隻、巡洋艦八隻を主力とする大艦隊整備計画に力を注ぎます。いわゆる「八八艦隊」の編成です。この計画の技術面を指導したのが平賀譲(ゆずる・1878~1943)です。

 東京芝生まれの平賀は、東京帝国大学工科大学造船学科を卒業後、海軍造船中技士に任官。1905年(明治38)、イギリス海軍大学校に留学します。渡英後すぐに日本海海戦の勝報を受けたことで大いに発奮し、造船技術の習得に勤しみました。

 帰国後、戦艦「山城」の設計責任者として新技術を採用し、「長門」「陸奥」ならびに八八艦隊の全主力艦の基本設計を担当します。1922年(大正11)のワシントン海軍軍縮条約によって戦艦の建造が中止されると、船殻(せんこく)重量の最小化と武装の最大化を眼目として巡洋艦「夕張」「古鷹」「妙高」などを設計し、世界有数の軍艦設計者としてその名を知られ、「軍艦設計の父」と呼ばれました。

 1918年(大正7)からは東京帝国大学工科大学教授を兼任して軍艦の設計・構造などの講義を担当するほか、海軍委託学生室でもマンツーマンの厳しい指導をしたそうです。太平洋戦争中、海軍造船官の多くは平賀の門弟であり、海軍造船中将に進級した平賀もA140計画(戦艦大和)の設計指導に当たりました。

 退官後、東京帝国大学第13代総長に就任した平賀を待ち受けていたのは、経済学部の派閥抗争でした。河合栄治郎教授らによるファシズム批判と、土方成美(せいび)学部長を中心とする国家主義派が対立し、正常な運営ができなくなっていた経済学部を再建するため、平賀は独断で両名を休職処分にし、これに反発した教授13名が辞職する事態に発展しました。いわゆる「平賀粛学(帝大教授の処分)」です。

 平賀が陸軍出身の荒木貞夫文部大臣のバックを得たことから、世間は「ファシズムによる大学弾圧」と非難し、軍人が帝国大学のトップに就任したことに皮肉を込め「軍艦学長」と呼びました。しかし、事件の真相は、大学トップがみずからの判断で非常時体制を確立し、事態を収拾しようとしたことにあったようです。事実、平賀は大学の自治と学問の自由を守り、また、翼賛体制下での学徒動員に対し、文部省に激しく抵抗しています。

 話を先のワシントン軍縮会議に戻しましょう。この軍縮は、膨大な額に及ぶ八八艦隊の建造費によって圧迫される国家財政を救うものとなりました。この時、首席全権委員として軍縮条約に調印したのが、海軍大臣の加藤友三郎(ともさぶろう・1861~1923)です。

加藤友三郎(1861~1923)

 広島藩士の三男に生まれ加藤は、海軍軍人であった兄を頼って上京、海軍兵学校を二番で卒業後海軍に入り、海軍大学校(第一期生)を経て海軍軍人として順調に経歴を重ねていきます。日本海海戦では東郷、秋山らと共に連合艦隊旗艦「三笠」に参謀長として乗艦し、戦後は、第二次大隈重信内閣、寺内正毅内閣、原敬内閣、高橋是清内閣の海軍大臣を務めた後、第21代内閣総理大臣に就任した海軍の知性派として知られています。

 ワシントン会議に出席したのは原敬内閣の海軍大臣を務めていた時です。軍縮条約は、主力艦のトン数比率を米英の10に対して日本を6とし、10年間主力艦の建造を休止するというものでした。加藤は、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点からこれを妥当と判断します。加藤でなければ、軍部の反対を抑え、条約締結にこぎつけることはできなかったといわれます。果敢な行動力を見せた加藤に対し、条約参加国は「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスを持つ提督)」と高く評価しました。

 実は、その前年、原首相は八八艦隊の膨大な予算を認めていました。加藤も海軍大臣として八八艦隊を推進しましたが、「国内は自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」と言って加藤を送り出すのです。二人の信頼関係がワシントン会議の成功を後押ししたといえるでしょう。これは、戦前日本の政治と軍事のバランスが取れた最後の局面であったといわれています。

 その後、1922(大正11)に高橋是清内閣退陣の後を受けて、内閣総理大臣兼海軍大臣に就任します。加藤の顔はロウソクのように細長く痩せていたため、「燃え残りのロウソク」「残燭(ざんしょく)内閣」と揶揄されますが、海軍軍縮を履行して軍艦一四隻の廃棄や海軍内のリストラを進め、さらには、陸軍初の軍縮を山梨半造(やまなしはんぞう)陸軍大臣の下で成功させました。加藤が「軍縮の父」と称されるゆえんです。