二人の「造船の父」

 海軍草創期、日本人による西洋式軍艦の造船に成功し、近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、「日本造船の父」と呼ばれた人物が二人います。赤松則良(のりよし・1841~1920)と上田寅吉(1823~1890)です。

 赤松がみずからの設計で軍艦四隻(清輝・天城・海門・天竜)を建造したのは、横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)所長を務めた1876年(明治9)頃のことです。そして、この四艦の製図を引いたのが上田寅吉でした。

 江戸深川(現東京都江東区)で幕臣の家に生まれた赤松は、蘭学を学んだ後、長崎海軍伝習所に留学します。幕府軍艦操練所勤務等を経て、1860年(安政7)、咸臨丸で渡米し、さらに二年後、榎本武揚(たけあき)や西周(にしあまね)、上田らとオランダに留学し、1868年(明治元)5月に帰国するまで、物理・化学・理学・造船工学を学びました。

 1870年(明治3)から兵部省に出仕し、海軍創設後は海軍兵学校大教授などを経て、横須賀造船所所長に就任します。1887年(明治20)に海軍中将に進級した後は、佐世保と横須賀の鎮守府司令長官を歴任し、退役後20年間、日本造船協会会長(現日本造船学界)を務めました。

 その赤松が、「わが造船史上の一大恩人」と讃辞を惜しまなかったのが上田です。彼が近代日本造船界の一大恩人といわれるようになったきっかけは、ロシア遣日使節プチャーチン提督の乗艦するディアナ号の座礁でした。

 1854年(嘉永7)11月3日、日露和親条約締結の第一回交渉が下田で行われ、翌日、いわゆる安政東海地震による大津波でディアナ号が損傷しました。修理のためにディアナ号は戸田(へだ)港目指して駿河湾を北上しますが、再び嵐に襲われ、数日間の漂流後、宮島村(現静岡県富士市)沖で沈没します。

 プチャーチンは代船建造を幕府に請願し、幕府は韮山(にらやま・現静岡県伊豆の国市)代官・江川英龍(ひでたつ)を建造取締に任命します。この時、造船世話掛に選ばれた船大工棟梁七人のうちの一人が上田でした。

 同年(安政元)12月24日、ロシアの乗組員から指導を受けた上田たちは、日本初の本格的洋式帆船の建造を開始し、翌年3月、二本マスト帆船、87トン、50人乗りの「ヘダ号」が進水しました。日本人の手によるこの快挙について、勝海舟は「このロシアの一大不幸がわが国にとって幸いとなり、日本の職人たちは、大変な苦労をしたものの、西洋式の造船方法を、知らず知らずのうち実地に会得したことが多い。……まさに日本国の幸いといわざるを得ない」と述べています。

 伊豆国君沢郡戸田村(現静岡県沼津市)の船大工の家に生まれた上田は、長崎海軍伝習所、オランダ留学、横須賀造船所と、赤松とほぼ同じ経歴を持ちますが、すでに留学前、欧式船舶建造の知識を備えていました。

 帰国後、戊辰戦争に参加しますが、降伏後、横須賀造船所に造船技術者として出仕し、赤松の述懐のとおり、日本人技術者だけによる西洋式船艦の造船に成功しました。