日本陸軍のルーツ、「奇」兵隊を組織した高杉晋作

 長州藩では、1864年(元治元)の第一次長州戦争で幕府への恭順を示した保守派が政権を握りますが、翌年、高杉晋作(1839~1867)らが馬関(ばかん・下関)で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめました。奇兵隊を創設したのは、革命児・高杉です。

高杉晋作(1839~1867)

 きっかけは、1864年(文久4)にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国が下関を砲撃した、いわゆる下関戦争でした。この時長州藩の砲台が一時的に占拠され、外国兵の上陸に動揺した藩士たちは一人残らず砲台を捨てて逃げてしまいます。そこで、下関の防衛を任されていた高杉は、藩主への建白書で「肉食之士人ら皆事に堪えず(代々禄をもらう士分階級はみんな腰抜けだ)」と述べ、身分によらない志願兵による奇兵隊を結成します。当時の身分制の原理からいえばこれはありえないことで、高杉自身それを自覚し、正規兵に対し「奇兵」と呼んだのです。

 奇兵隊は実に強く、明治維新が薩長の武力を背景に成し遂げられたことを考えれば、奇兵隊の創設は一つの大きな転機だったことは間違いありません。司馬遼太郎氏は、「奇兵隊の成立は、それそのものが幕藩体制に対する革命であった」と述べています。

 高杉が、戦闘能力の強化という軍隊本来の機能と身分にとらわれない「四民平等」的な思想を兼ね備えた「奇」兵隊を創設し、大村によって西洋式兵制の採用をはじめとする軍制改革がなされ、奇兵隊を含む長州軍がその後の討幕へと向かう主戦力となり、さらには、御親兵から日本陸軍へと発展し、山県によって軍制が整備されていったことを考えても、奇兵隊が日本陸軍のルーツであるというのはうなずけます。

「奇兵隊の父」と呼ばれる高杉の墓所(下関市)のすぐ脇には、巨大な顕彰碑が立っています。そこに書かれた「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」から始まる有名な高杉評は、同じく奇兵隊出身の明治の元勲・伊藤博文によるものです。

近代日本警察の父──川路利良

 幕末に禁門の変(1864年)で戦功を挙げ、西郷隆盛に見出された薩摩藩出身の川路利良(かわじとしよし・1834~1879)は、明治新政府樹立直後の世情安定を図る目的で東京に3000名の邏卒(らそつ・巡査)が置かれると、その長である邏卒総長に任じられた人物です。

 1872年(明治5)、川路は警察制度視察でヨーロッパに渡ります。帰国後、司法権と警察権の分立を建議し、これに基づき警察は司法省から内務省に移され、1874年(明治7)、東京警視庁が創設されます。川路は初代警視長を経て大警視という最高ポストに就任します。ちなみに、大警視は後に警視総監と改称され、現在も警察官の最高位です。

 1873年(明治6)に征韓論争で破れた西郷が下野した後も、内務卿・大久保利通から厚い信任を受けますが、1877年(明治10)に西南戦争が起こると警察内部は動揺し、西郷の恩恵を受けた川路も西郷軍に合流するのではないかとの風説が流れます。しかし、川路は「私情においては誠に忍び難いことであるが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前に私情を捨ててあくまで警察に献身する」と自己の信念を明らかにしたうえで、警視庁警視隊を率いて西郷軍と戦いました。

 大警視(初代警視総監)となった川路は、近代的警察制度の確立に尽力します。その基本精神をまとめた「警察手眼(けいさつしゅげん)」は、「警察要旨」「警察官ノ心得」「警察官等級ノ別」「部長心得」「巡査心得」「探索心得」の六項目から成り、警察の運営・活動の指針として今日も警察官に広く読み継がれています。川路が「近代日本警察の父」と称されるゆえんがここにあります。