「日本企業の成長戦略」とか「日本のものづくりはサムソンに勝てるのか」。新聞や雑誌を見ていると、この種の話がやたらに出てくるのだが、そもそも問題の立て方からしてヘンなのではないか。というか、問題として成り立っていない。「日本企業」といっても「いろいろある」としか言いようがない。人生もいろいろだが、企業もいろいろだ。少なくともどの企業かを特定してもらわなければ、サムソンとの競争は論じられない。当たり前の話だ。

 「韓国企業の成長戦略」とか「ドイツ企業の競争戦略」という話は、韓国やドイツではほとんど話題になっていないと思う(「現代自動車の成長戦略」や「ポルシェの競争戦略」はあるだろうが)。韓国人の経営学者で、いまはシンガポール国立大学で教えている友人は、「『韓国的経営』なんていうものはそもそもないし、シンガポールでも『シンガポール的経営』という言葉を聞いたことはない。『日本的経営は是か非か』とか『日本企業のものづくりは大丈夫か』とか、日本という国を単位にこれほど活発に経営が議論されている国は日本だけではないか」と言っていた。

「土壌論」が多すぎる

 「日本」という国の文脈が(おそらく過剰に)濃いのだと思う。確かに日本には他国にない独自の特徴がある。集計レベルでの傾向としては、「日本企業の強みと弱み」とか「日本企業の競争戦略」という話はあり得る。むしろ経営の土壌の話として重要だと思う。経営はその土壌とは無縁ではありえない。その意味で、「日本」という「土壌論」には意味がある。

 しかし、そうした土壌論があまりにも前面に出すぎると、「土を見て木を見ず」になる。ありもしない「3年2組の戦略」を延々と議論するという空疎な話だ。金八先生がいるわけでもない(「護送船団方式」とか、さらにその昔の「傾斜生産方式」のころには、業界によっては強烈な金八先生がいたのかもしれないが。←わからない方はスルー、ヨロシク!)。

 戦略は個別企業の問題であり、個別企業の中にしか存在しない。土壌に特徴があるにしても、その土壌のどこにどういう種を植えてどういう花を咲かせるか、それは一義的には経営の手腕にかかっている。経営や戦略を云々するときは、森や葉や土を見るのはほどほどにして、ひとつひとつの木そのものにもっと目を向けるべきだ。土壌は約束しないし、土壌に責任はない。

(だんだん話が長くなってきて、連載4回目にして早くも2000字近くなってきた。次回はスカッと短い話をおとどけします。)

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