日本の工学全分野の発展に尽くした山尾庸三

 1870年(明治3)、西洋の科学技術を導入し殖産興業政策を支える工部省は、民部省の一部が独立して設置されました。以後、1885年(明治18)の内閣制度発足時に廃止されるまで、近代国家建設のために鉄道敷設、造船、鉱山開拓、製鉄、電信整備、灯台設置などの官営事業を担いました。

 この工部省管轄の教育機関が工部大学校(現東京大学工学部)です。1871年(明治4)に開校した工部省工学寮から発展した工部大学校は、1886年(明治19)の工部省廃止に伴い帝国大学工科大学に統合されるまで、世界に先駆けて実学を重んじた高等教育機関です。

 1879年(明12)、志田林三郎ら22名の第一回卒業生を出してから、わずか七年間の間に、日本の近代化の礎を築く数多くの技術者を育てました。辰野金吾、高峰譲吉、井口在屋、小花冬吉、田辺朔郎、藤岡市助、小山正太郎、浅井忠らの卒業生は、後に各分野で「父」なる称号を得ています。維新後まもないこの時期に、なぜこのような高等教育機関の設置が可能だったのでしょうか。

 その謎を解くキーパーソンが、伊藤博文と山尾庸三(1837~1917)です。

 工学寮設置当時、伊藤は工部大輔として外国人教師を採用する職にありました。工部大学校が短期間で優秀な技術者を育成できたのは、破格の待遇で外国人教師を招聘したからです。進言した伊藤の尽力は特筆すべきことです。伊藤は、その後も工部卿として活躍し、工部省、工部大学校の整備に尽力しています。

 一方、山尾は、ロンドン大学で自然科学を学んだ後、単身スコットランド・グラスゴーに移り、昼は造船所の徒弟として造船技術を習得し、夜は当時の工学の草分け的学校だったアンダーソン・カレッジの夜学に通い、滞在五年、31歳になった1868年(明治元)に帰国します。

山尾庸三(1837~1917)

 明治政府に出仕した山尾は、イギリス留学の経験を生かし、1870年(明治3)に工部省の設置を、翌年には工学校の開設を建議します。当時の日本に工業の発展に目を向ける人材が乏しく、政府では反対の声が上がりますが、山尾は「人材を育成すれば、その人が工業をつくっていく」と力説しました。その結果、工学寮が設置され、山尾は工学頭に就任し、工部大輔、工部卿を歴任しました。

 工部大学校の第一回卒業生たちが、相互の親睦、知識の交換を目的に設置した工学会(現日本工学会)会長に就任した山尾は、1917年(大正6)に辞任するまで36年の長きにわたり日本の工学全分野の発展のために尽くします。山尾が、「工学の父」「明治の工業立国の父」と呼ばれるゆえんです。

 山尾は、また、聾唖教育・盲教育の推進者としても知られています。1880年(明治13)山尾によって開校された東京・築地の訓盲院(現筑波大学附属聴覚特別支援学校)は、日本初の盲教育機関といわれています。山尾が盲教育に熱心だったのは、グラスゴーの造船所時代に、ハンディキャップのある人が健常者に混じって堂々と鋲(びょう)打ちの仕事をしているのを見て、衝撃を受けた経験があったからです。日本もイギリスのように、ハンディキャップのある人が教育を受け、健常者以上の能力を備えて社会に参加し貢献できる環境を実現しようとしたのです。

 伊藤も山尾も、イギリス留学によって、列強国と日本の実力の差を痛感し、工業を興すことこそ日本のとるべき道であり、そのためには人材への先行投資が不可欠であることを理解していたのです。

「日本鉄道の父」、井上勝

 長州五傑の最後の一人、井上勝(1843~1910)は、「日本鉄道の父」と呼ばれ、日本における鉄道事業の先駆者です。

 井上は、江戸の蕃書調所や箱館で洋学を学び、密航先のロンドン大学では鉱山学・鉄道技術を習得して、1868年(明治元)に帰国しました。鉄道頭として新橋~横浜間の敷設を指揮した後、大阪~神戸間の鉄道建設を進め、1877年(明治10)、工部省鉄道局初代局長に就任します。

 その後、日本人による鉄道建設を目指し、大阪に技師養成所を設立すると、難工事を要した京都~大津間の逢坂(おおさか)山トンネルを、日本人の手だけで完成させています。1886年(明治19)には、当時建設中だった東京~京都間の中山道ルートを東海道ルートに変更し、1889年(明治22)にこれを開通させました。

 鉄道庁長官となった井上は、「鉄道攻略の議」を上申して、経済政策や国防上の観点から政府が幹線鉄道を建設し経営すべきと論じます。ところが、1892年(明治25)に実施された鉄道敷設法は、国会議員によって私設鉄道を促進する法案に修正されてしまいます。当時、多くの国会議員が私設鉄道各社の株主だったのです。これに憤った井上は、鉄道庁長官を退任してしまいます。

 その後は鉄道院顧問や帝国鉄道協会会長などを務めますが、1910年(明治43)、鉄道状況視察のため訪れた思い出の地・ロンドンで客死しました。

 現在、山尾庸三の生家前(山口県山口市秋穂二島)とロンドン大学には、五人が留学後に初めて撮った写真をモチーフにした銅板レリーフを埋め込んだ顕彰碑が立っています。その碑文は、彼らの功績を次のように刻んでいます。

「五人の若者の勇気と情熱をここに称える」
(つづく)

「長州五傑」五人の墓所
井上馨墓所(永平寺東京別院長谷寺・東京都港区西麻布/洞春寺・山口県山口市水の上町)
伊藤博文墓所(伊藤家墓所・東京都品川区西大井)
遠藤謹助墓所(麟祥院・東京都文京区湯島)
山尾庸三墓所(海晏寺・東京都品川区南品川)
井上勝墓所(東海寺大山墓地・東京都品川区北品川)
 
※井上馨写真、およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ