「農業協同組合の父」と「産業組合の父」

品川弥二郎(1843~1900)

 1900年(明治33)、現在の農業協同組合(JA)、生活協同組合(CO・OP)、信金・信組のルーツとなる産業組合法が成立しました。これは、日本の資本主義が発達するにしたがって、大資本に圧倒される農民や中小零細企業を救済する相互扶助の精神に基づく協同組合原則を組み入れたもので、アジアで初めて協同組合を規定した画期的な法律として知られています。この立法に当たり中心的な役割を果たしたのが、品川弥二郎(やじろう・1843~1900)と平田東助(とうすけ・1849~1925)です。

 長州藩出身の品川は、吉田松陰の松下村塾で学び、松蔭から「人物を以て勝り、而して学問称わず」と評された人物です。倒幕運動に奔走し、維新後は兵部省から軍事を学ぶためドイツに派遣されますが、ドイツの政治経済にも注目し、平田と共にシュルツェデーリッチの信用組合を見て、産業発展に役立つと考えます。帰国後は農商務省大輔として農業振興に携わり、農村の協同組織の必要性を感じて、1891年(明治24)に第一次松方正義内閣の内務大臣になると、産業組合法に取り組みます。

 1900年(明治33)2月22日、産業組合法が成立した時、品川は病床にあり、法案成立を待っていたかのように、4日後に58年の生涯を閉じます。

 近代日本の農業振興に尽力し、JAの母体である産業組合設立にも尽くした品川は、「農業協同組合の父」と称されます。今日、山口県JA会館敷地内の「品川神社」は品川弥二郎を祀って、その功績を称えています。

平田東助(1849~1925)

 一方、米沢藩出身の平田は、大学南校(現東京大学)で学んだ後、23歳の時、岩倉使節団に随行し、ベルリンでドイツ留学中の品川と運命の出会いをします。品川が、ロシア留学を目論む平田に対し、国運隆盛のドイツ留学を強く説得したことから、平田はドイツ留学を決心し、ベルリン大学で経済学、ライプチヒ大学で哲学、ハイデルベルグ大学で国際法・政治学を修め、ハイデルベルグ大学では日本人初のドクトル・フィロソフィ(博士号)を授与されます。

 帰国後は、ドイツ政治学の権威として、また山県有朋閥の法務官僚として頭角を現し、品川と共に産業組合法の成立に尽力します。また『産業組合法要義』を著して産業組合精神を説き、1901年(明治34)に第一次桂太郎内閣の農商務大臣に就任してからも、その普及に努めました。

 1905年(明治38)には、「大日本産業組合中央会」を設立し、幕藩体制によって長く分断されていた日本全国の農民を一つの組織にまとめ上げ、会頭に就任します。以後毎年、全国産業組合大会の議長を務め、また全国各地を遊説して、「相互扶助」の意義を訴えました。平田が「産業組合の父」と呼ばれるゆえんです。

 1921年(大正10)、東京九段下に、全国の産業組合員有志250万人の拠出による巨大な平田の座像が建立されました(現在は町田市の中央協同組合学園に移転)。
(つづく)

「法曹界の父」11人の墓所
江藤新平墓所(本行寺・佐賀県佐賀市西田代)
山田顕義墓所(護国寺・東京都文京区大塚)
児島惟謙墓所(海晏寺・東京都品川区南品川)
穂積陳重墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
梅謙次郎墓所(護国寺・東京都文京区大塚)
穂積重遠墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中)
中川善之助墓所(東慶寺・神奈川県鎌倉市山ノ内)
我妻栄墓所(不明)
清瀬一郎墓所(不明)
品川弥二郎墓所(京都霊山護國神社・京都府京都市東山区清閑寺霊山町/明安寺・山口県萩市大字椿東船津)
平田東助墓所(護国寺・東京都文京区大塚)
 
※江藤新平、山田顕義、児島惟謙、品川弥二郎、平田東助、
およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ