義足で道内を駆け抜けた「ドキュメンタリー写真の父」

 二人目の「写真の父」は下岡蓮杖(しもおかれんじょう・1823~1914)、絵師から写真家に転身した変わり種です。

 伊豆国下田(現静岡県下田市)に生まれた下岡は、13歳で出奔して江戸に出て、狩野董川(とうせん)に師事しますが、ある時、銀板写真を見て驚嘆し、絵師の道をあっさり捨て、写真に使う薬品や撮影技術の研究に没頭します。撮影に成功した下岡は、上野が写真館を開いた1862年(文久2)、横浜における初の営業写真館を開設します。二人は、日本における写真の東西の開祖というべき存在なのです。

 下岡は、後世に不朽の功績を残した写真家ですが、石版画印刷、乗合馬車、牛乳販売、コーヒー店などの新事業を次々と興したことから、ベンチャー・ビジネスの魁として評価する専門家もいます。

 3人目は、悲運にも医学の道を断念して写真の世界に飛び込んだ田本研造(たもとけんぞう・1832~1912)です。紀伊国牟婁(むろ)郡神川村(現三重県熊野市)の農家に生まれ、長崎で医学・化学を学び箱館に渡った田本が、なぜ写真の道へ進むのか。実は、壊疽を起こした右足を切断するという悲運に見舞われ、片足でもできる写真師の仕事を選んだのです。

 右足切断の手術をしたロシア人医師ゼレンスキーからロシア流の写真術を学ぶと、彼の紹介により北海道で活動する写真師の木津幸吉(きづこうきち・北海道最初の写真師)や横山松三郎(まつさぶろう・下岡蓮杖の弟子)たちの知遇を得て写真師としての道が開け、後世にその名を残すことになるのですから、人生とは不思議なものです。

 片足で人生の再スタートをきった田本が残した最も有名な写真は、箱館戦争の際に撮影した洋装姿の土方歳三のものです。しかし、この写真が田本の写真師としての評価を決定づけたわけではありません。田本の郷里の熊野鬼ヶ城(三重県熊野市木本町)に立つ顕彰碑横には、その理由が次のように書かれています。

「明治4年(1871)北海道開拓使命により、開拓記録写真撮影に専念すること十有余年、その厖大なる作品は迫真の記録性に優れ、隻脚写真師の声名これより大いに挙がる。風景と人物主流の、写真史初期秀抜のドキュメントは、高く評価され、下岡蓮杖、上野彦馬と並びわが国写真界の先駆者と称せらる」

 箱館戦争や北海道開拓の写真撮影に際し、田本は外国製の義足をあて道内を駆け巡りました。なかでも石狩地方の開拓の様子を158枚に記録して開拓使に提出した写真は、ドキュメンタリー写真の草分けとして、日本写真史上高い評価を受けています。田本が「ドキュメンタリー写真の父」と称されるゆえんがここにあります。

 1869年(明治2)、箱館に北海道初の写真館を開いた田本は、上野、下岡と共に「日本写真界の三大先駆者」としてその名をとどめています。