たまたま成り行き上、母国語が世界共通語になったアメリカ人やイギリス人やオーストラリア人はラッキーとしか言いようがありません。昔から「イギリスの最も競争力のある輸出品は英語だ」とか言いますね。英語と似た構造をもち、アルファベットを使う言語を母国語に持つ人もまずまず幸運。

 それに比べて日本語はもうどうしようもない。もし韓国語が世界共通語だったら、韓国語と構造が似ている日本語を母国語に持つ日本人はこれほど外国語で苦労しなかっただろうと思います。

 というわけで、不運といえば不運なのですが、愚痴を言っても仕方がない。不運は努力で克服するしかない。これは人の世のさだめです。とりあえず頑張って英語でコミュニケーションするしかないわけです。ところが、そういうといきなり「英語力」という話になってしまう。この飛躍が曲者です。言葉としての英語そのものの質はあくまでも2次的な問題です。「これからは英語ですよ!」ということになると、まじめな人々はついつい目標を高すぎるところに設定して、いらぬ苦労をしたり、勝手に不安になったりしがちです。

 確認しておきますが、グローバル化時代に求められるコミュニケーション・スキルは、英語ではありません。文字どおりコミュニケーションそのもののスキルです。もちろんしゃべれなければ文字どおり話しにならないのですが、ブロークンな英語でもまったく構わない。コミュニケーションがうまくいくこと、一緒に仕事ができることが目的なのであって、話しと気持ちが通じればそれでよい。この当たり前のことを忘れないことが大切です。

 私が所属する一橋大学大学院国際企業戦略研究科(以下、長いので「ICS」と省略)のMBAプログラムでは、すべての講義が英語で行われます。僕はアフリカで育ったこともあって、相対的に英語に親しむ幼少期を過ごしたのですが、小学校の高学年からはずっと日本で暮らしてきたので、英語がペラペラというわけではありません。

 もちろん今の仕事について20年もたったので、英語で論文を書いたり、学会での研究発表とかディスカッションとか、英語を使う機会はそれなりにありました。しかし、35歳の時にICSに来て、英語で講義をやり始めたうちは……というか今でもそうですが、日本語で教えるのと比べてずいぶん疲れます。でも相手に理解させることはできるし、コミュニケーションもとれる。もちろん英語がもっと上手になるに越したことはないのですが、めんどくさいので英語レベルを上げるための特段の努力は一切していません。